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自分の写真がない

スマホを紛失すると、実機なしでアプリを復活させなければならず、
なかなかに面倒だ。

今はAndoroidなので、Googleで管理できていたものに関しては、
ほぼデータが保存されていて無事だったのだが、
自分の撮った写真を見ていてわかったのは、
「自分が写っている写真がほとんどない」
こと。

撮っているのが自分なので当然なのだが、
それにしても少なくて、
そういえば、何かで顔写真を求められると困ってしまうのだ。

だいたい我が家の人々はみんな写真嫌いで、
家族で写真を撮り合ったりすることがまずない。

数年前、家族で10日間ヨーロッパに行ったけど、
家族で写っている写真なんて一枚もなく、
もちろん私の写真もない。
人物としては、私が何かの拍子に子供たちを数回撮ったくらいで、
むすこに至っては、10日間で2,3枚しか写真を撮っていなかった。

ところが、先日浅草に行った際、さまざまな国から来た観光客が、
ほぼ全員、
「人形焼きを食べている自分」
「桜の枝をかざしている自分」
を、同行の家族や友人に撮らせたり、自撮りしているのを見て、
「こうすればよかったのか!」
とようやく気づいた。

「写真を撮る」ということは今や、
「自分を撮る」ということなのかもしれない。

でもなぜか私も家族も、「自分」をすっとばして、
「自分が見ているもの」ばかり撮ってしまう。

「そこ」に行ったのは間違いなく自分なので、
自分を撮る必要はないように思うのだが、
「そこ」に行ったことを証明するのは、
自分が写りこんだ写真なのだ。

でも、面倒くさいんだよなあ、
校門や映えスポットの行列に並んで待つのが。
あと、レストランで料理を撮るのも忘れてしまう。
ついつい、撮る前に食べ始めてしまうから。
写真を撮るのって、タイヘンだ。

でもそろそろ自分も撮っておこうと思う。
遺影がなくて困るのもイヤだし。

火と水の11日

先週の土曜は11日だった。
12年前のあの日から、干支一周したんだな。

なんとなく落ち着かない気持ちで朝、
台所の蛇口のレバーを押し上げたら、
なんとバキっと折れて落下し、
震災の頃から使っていたグラスが一個割れた。

さあ大変、水が出ない。

正確には、レバーを無理やりねじこんでそーっと上げ下げすれば、
出なくはないけど、やっぱりすぐに取れてまた落ちてしまう。

仕方なく業者を呼んだら、割合すぐに来てくれたんだけど、
レバーが折れただけじゃなく、
水栓の根元が弱って傾いていたらしく、
全とっかえしなければ無理ということがわかった。

カタログでそれらしいのを見繕って即発注したものの、
取付は週明け以降。
それまでだましだまし使うしかない。
ついてないなぁ。

そこでハッとした。
人こそ違うけど、11年前のこの日、
同じ会社に、その時はガス給湯器の修理をしてもらっていたんだ。

「直りましたよ。お湯出してみましょうね」
と技術者の人が言った途端、
人生最大の揺れが……

「これが本当に止まったの、初めて見ました」
安全装置が働いて、ガスは止まっていた。

お湯は出るようになったけれど、
その後は長く不安な日々を過ごすことになったんだ……
もちろん、東北の人たちの苦難とはくらべものにならないが……

あの日は、火。
今回は、水。
奇しくも同じ日に、同じ業者に来てもらうことになって、
なんとも不思議な気持ちになった。

震災のときも、ようやく来たバスに乗りながら、
「走ってくれてありがとう!」
開けてくれたスーパーに、
「売ってくれてありがとう!」
という気になったもんだ。

目に見えない大事なものを、
災害はあの時あぶりだして見せてくれた。
火も水も、当たり前に出るものじゃなく、
こういう人たちの誠実な仕事があって初めて使えるものなんだ。

それから数日経って水栓は交換され、
快適な日々が戻ってきた。
実は、あの後さらにグラスをもう一個、
割ってしまったのだった……

自力で思い出す

スマホがあると、いちいちパソコンを開けなくてもいろいろ調べられて便利だ。
でも、年々スマホに頼る頻度が上がってきて、なんだか不安だ。

てのひらのなかのこの薄っぺらい板に全世界が入っているかのように、
その板を握る自分が全世界を握っているかのように、
いつの間にか錯覚してしまいそうで気味が悪い。
本当は、この板がなければ何ひとつ思い出せない空っぽな頭しかないくせに。

とはいえ、年齢とともに思い出せない場面がどんどん増えてきて、
人の名前や作品名、ものの名前など、
一日に何度も「あれ何ていったっけ……」と立ち止まる。

そんなとき、切羽詰まった状況でなければ、
時々検索しないで自力で思い出すようにしてみている。

言葉がすぐに出てこないのはもどかしいけれど、
どうにかして自力で思い出す訓練をしておかないと、
もはやスマホなしで生きていけなくなってしまいそうだから。
(もはやそうなっているのだが……)

先日、映画の『日本沈没』をテレビの録画で観て、
かなり原作に忠実に制作されているのに感心したところなのだが、
数日たって、その話をしている時、
「あれ? 著者って誰だっけ」
顔は出てくるのだが、どうしても名前が思い出せないのだ。

でもググるのはイヤなので、一生懸命考える。

こういうとき、頭に浮かぶ言葉を、関係がなさそうでも、
書き連ねていくといいらしい。

この時書き留めたのは、

・松本清張
・泉鏡花
・大橋巨泉
・沈まぬ太陽
・眼鏡

松本清張が出てきたのは、何となくわかる。眼鏡も共通してるし。
「沈まぬ太陽」は山崎豊子だが、それも何となくわかる。
しかし、あとの二人は、全然関係なさそう。なんでこの二人が……?

しばらく考えてもやっぱり出てこなかったのであきらめて、
ほかの作業を始めた。
だいたい、ほかのことをしていると、20~30分後に、
急に思い出すことが多いのだ。

案の定、30分近く経ってから、立ち上がる拍子にふっと出てきた。
「小松左京!!」
自力で思い出せた嬉しさに胸がすっとしつつ、
「にしても何でこの二人?」
と訝った瞬間、はっと腑に落ちた。

「左京」の「きょ」の音だ!

記憶は、脳の中の棚のような場所に、
似たものとまとめて格納されていると聞いたことがある。

時代は違うが作家である「きょうか」
作家ではないが同時代の「きょせん」

は、「さきょう」の隣の棚に入っていたのだろう。
記憶ってこうなっているのか……と面白かった。

今までもこの方式でいろいろな言葉を自力で思い出している。
これからも、時には検索に頼らず、
自力で思い出してボケ防止に努めようと思う。

ストレッチ

この1,2か月、友人を急に亡くしたことですっかり落ち込んでいて、
私初めてだ、春の気配がするのに心が浮き立たないのって。

マスクも外してよくなりそうで、いろいろなイベントも復活して、
本来なら景色がキラキラ見えてくるはずなのに、
今年は何もかも色あせて見える。

彼女と、一昨年亡くなった山本文緒先生が重なって、
同世代の自分とも重ねてしまっているのかもしれない。

無理に元気出そうとしてもうまくいかない。
おとなしく落ち込んでいるしかない。

こういう時は、
かえって書くことで気持ちを落ち着けた方がいいのかもしれないな。
気持ちを言葉にして文字にすることで、
つらさが増してしまうように思っていたけど、
きっと逆なんだ。

絵の描ける人なら絵を描いて、
ピアノが弾ける人ならピアノを弾いて、
心の中に浮かんだものを外に出すだろう。

私はそれを文字にして頭から出していこう。

しゃれた写真はつけられないかもしれないけど、
(私は写真がヘタクソ)
文字だらけになってもいいから、
書くことで心をストレッチしよう。

私にはそれしかできないんだし。

人にはなぜ物語が必要か

食べるものと着るもの、寝るところがあれば、人間は生きていけるし、
それらのクオリティが高ければ、十分楽しく生きていける。
だけど、人間はそれだけじゃ足りないらしい。

小説や映画、絵画や写真を、どうして人間はこんなにも必要とするんだろう。
どうして、世界をもう一つ、作ろうとするんだろう。
そこに必ずあるのは「物語」だ。
人間は、どうして物語がないと生きられないんだろうか?

いつか、美術の作品展の設営を手伝っていたとき。
まっ白い大きな壁の間近に立っていたら、
突然クラクラして、気持ち悪くなってしまったことがある。
距離感や方向感覚がなくなってしまったからみたいだ。

ほんとうに何もない空間って、恐ろしいだろうな。
どこからどこまでが自分かわからなくなりそうじゃないか。
真っ暗闇の中、人肌の塩水に浸かるというアイソレーション・カプセルだって、
予め時間が知らされていなかったら、
リラクゼーションどころか、発狂してしまうんじゃないの?

よく、「人と比べるのは無意味」「自分は自分」などと言われるけれど、
実際は、何らかの対象物がないと、人間って生きられない、
少なくとも、生きるのが難しいんじゃないのかなあ。

人と自分を比べてばかりの人生なんてイヤだけど、
物語だったら、
自分と近しいものであっても、無関係なものであっても、
この世界における自分の立ち位置のようなものを、
やんわりと示してくれそう。座標軸のような役割を果たしてくれるんだ。
昔の船乗りが、空の星を見て船の位置を知ったみたいに。

物語は、私たち一人ひとりの中にだってある。
生きているうちに自動生成されてきたこの人生は、
まさに物語。(別にドラマチックじゃないけど)

私たちは無意識のうちにこの物語に沿って生きている。
幸不幸は初期設定――運――に大きく左右されていることは間違いないが、
設定だけで物語が進むわけじゃないしね。

プレイヤーである自分のアドリブ一つで方向は変わる。
っていう主人公マインドがあれば、
自分の物語を自分の望む方向に進めることができるのかな。

あれ? 何の話だっけ?? 

ゆっくり話す人の価値

むすめと話していると、時々もどかしくなることがある。
むすめは一つひとつ言葉を選んで、考えながら話し、
話ながら考え込むタチ。
「だから……えーーと、だからね……」
といった具合に、単語と単語の間に長い時間が経過してしまうことがある。

「全部考えてからしゃべればいいんじゃない?」
と言ったことがあるが、
「それができないんだよ」。
自分でも悩んでいるらしい。
弁の立つ、頭の回転が速い人と話すと、
相手を待たせてしまうし、自分のスローペースが際立ってしまうもんね。

私はどちらかというと早口でダダダっと話す方なのだが、
なぜか私はこのタイプと相性がいい。
ゆっくり話す人のことを、不思議だなと思いつつもイラついたりはしない。
言い淀んだり、言葉を選んでいる相手を見ながら、
その間にお茶を飲んだりしてのんびり待てる。
セカセカした自分の時間を、相手が中和してくれることを、
無意識のうちに感じているからかもしれない。

先日、手がかぶれてしまい、初めての皮膚科を受診したのだが、
そこのドクターが「待てない人」だった。
愛想はいいし、何より歴とした医者なので、文句を言うのは筋違いかもしれないが、
私が症状を言い終わらないうちに、
「あー! それは〇〇だね!」
といってもうパソコンのモニターの方に向き直ってしまい、
「お薬一週間出しときますね~」。
正直、効く気がしなかった。
(以前も別の皮膚科で似たような軟膏を出されて全然効かなかった)

頭のいい人に時々あることだが、
相手がもたもたしていると、先回りして、
「つまり、それはこういうことだよね?」
と話をまとめてしまう。
相手を、相手以上に理解しているつもりだからなのか、
相手の話し終わるのを待っていられないからなのか。

その「つまり」がおおむね正しかったとしても、
これではコミュニケーションは成り立たないと思う。

ゆっくりでも、なかなか的確な言葉が出てこなくても、
その人自身が選んだ言葉が全部出きるまで待っていた方がいいんじゃないのかな。
「私はこう思う」
っていうのは、相手の話を全部聞いてからにした方がいい。

ゆっくり話す人は、トロいんじゃなくて、
誠実なんだと思う。
嘘や不正確なことを言いたくないがために、
言葉をゆっくり選んでいるんだ。
速さよりも大切なものが、会話にはあるもんね。

仕方ないじゃない

内科の待合室に、80代の女性と60前後の息子らしい男性が座っていた。
(お母さんに付き添ってあげてるんだな、親孝行な息子さんだな)
そう思っていたら、聞こえてくるのはお母さんに対する小言ばかり。
しかもだいぶネチネチと機嫌が悪そう。

「なんでそれ昨日のうちにやっとかないの? 
普通来る前にやるでしょ、今来てここでできないでしょ」
「そんなで来られたってお医者さん困っちゃうよ? 迷惑なんだよ?」
「だから昨日確認したのに。なんでそういう嘘つくの?」

どうやら、便を採って持ってくるはずだったのに、
お母さんは用意してなかったらしい。
そもそも「排便」という言葉がわからなかったみたい。

息子にキレられて、お母さんは少し恥ずかしそうに、
でもシラを切り通す態度が見え見え。
詰められると聞こえないふりをしたり、
急に陽気になって、話題を変えたり。

そんなお母さんの態度にますます苛立ちを募らせる息子。
二言目には、
「なにそれ、意味分かんない!」
を繰り返していた。

あるよなーこういう会話、
私も実家の母とこういうバトルよくするもん。
でも、他人からはこう見えるんだな。

よく、道端でダダをこねて動かなくなった子をガミガミ叱りつけてる親を見て、
「あんなに小さい子に、そんな怒鳴らなくても…」
なんてつい余計なお世話で思っちゃうけど、あれと一緒なんだな。

仕方ないじゃない、赤ちゃんなんだもの。
仕方ないじゃない、おばあちゃんなんだもの。

付き添ってる息子さんは、当然お母さんを心配している。
でも、かつてはできていたり、理解できていたりした事が、
少しずつできなくなっていく母を、認めたくないのかもしれない。
本当は、怯えているのかもしれない。
それを、苛立ちや怒りとして表現しているのかもしれない。

一方お母さんも、衰えていく自分の知力にびっくりしたり、
それを息子に悟られたくなくて、
ついついウソを言ってしまうんだろう。
母としての威厳を失うまい、心配かけるまいと一生懸命なのだ。

衰えていく人に正論をぶつけても仕方ないね。
それで改善することがないのならなおさら。

次、帰省したときは、ちょっと母に優しくできそうだわ。

ソンとかトクとか

今住んでるのはフツーの田の字マンション。
もう18年近く住んでいる。
ここに至るまで何度か小さな工事や修理をしてきた。

その都度工務店や修理業者に来てもらうのだが、
今時は必ず、
「休憩のご配慮は無用です」
と言われる。
お茶出しなどしなくていいですよ、ということらしい。

私は田舎育ちなので、そうは言われても必ずお茶を出してしまう。
職人さんにお茶を出さないなんて考えられないからだ。親たちもそうしてきた。

食卓に座ってもらうこともあれば、
職人さんがあまりに恐縮する(会社にきつく言われているのか)ときは、
工事中の部屋にお茶を持っていくこともある。
「10分でいいですから、お茶一杯飲んでくださいよ」

どんなに固辞する職人さんでも、怒り出す人はいないし、
ほとんどは「それでは」と休憩してくれる。
ちょっと世間話してくれる人もいる。

ダラダラ休憩する人は一人もいない。
10分か15分、休んだら、
またせっせと作業を続ける。

そしてこれは不思議なことなのだが、
どの職人さんも、絶対と言っていいほど、
何かちょっとした作業を付け加えてくれるのだ。
ケーブルを固定してくれたり、
穴の開いているところを補修してくれたり、
ものの5分程度の作業だが、何かしら必ずやってくれる。
例外はない。

別に、サービスを期待してお茶を出したりなんかしていない。
依頼した作業さえきちんとやってくれればそれでいい。
中には、お茶なんか飲みたくない人もいるかもしれない。
それより10分でも早く帰りたい人もいるかもしれない。
そんな人に無理強いしたりはしない。

でも、今のところ、100%の確率で、
職人さんはお礼の気持ちを見せてくれる。
文化人類学なんかで言う互酬性の法則というやつなのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
私は、ちょっとぐらい休憩した方が、
少しはリフレッシュできるだろうと思ってお茶を出すだけ。

職人さんはそれに応えてくれたのかもしれないし、
あるいはただの気まぐれなのかもしれない。
でも、受け取った私は、いつも目の前がパアっと明るくなるような、
胸が温かくなるような気持ちを感じて幸せになる。

食堂で会計するとき「ご馳走さま」という人に向かって、
「金払ってんだから礼を言うなんてバカバカしい」

という話を聞くと、必ず思い出す。
礼を言うのはそんなにソンなのか?
一言の礼をケチって、何をトクしてるつもりなのか?

おいしかったら「おいしかったです!」と必ず言う。
それは本当の気持ちだから。
受け取る相手が奇異に思ったとしても言う。

いつまでも生きてるわけじゃないんだから、
感謝の気持ちはその時表現する。
幸せな気持ちは必ず表現する。

思ってるだけななく、表現することで、
私だけの狭い世界は、受け手と共有されて広がる。
言葉はそのためにあると思ってる。

私たちも音楽の一部

昨日は数ヶ月ぶりにライブハウスに行きました。
お店は新宿「SOMEDAY」、出演はジャズ・コーラス「Breeze」。
やっぱり生音はいいね〜♬

ステージと客席が若干遠くなった

入店と同時に有無を言わさず検温、手にはアルコールスプレー。学校みたい。
席は密にならないよう、数席ごとに「使用不可」の紙が貼られ、
最前列もステージからは2m。お客は基本マスク着用。
ジャズのライブハウスなので基本スタンディングで踊るとか、
拳を挙げて騒ぐとかもないし、これで感染が起きるとは思えないので、
大いに安心して聴けた。

安定のコーラスだけど、私が行くときはかなりの確率でピアノが二村希一さんのところが、
今回は森田潔さんで、だいぶ印象が違う。
二村さんがキラキラのカットグラスなら、森田さんは気泡の散った乳白色の手吹きガラスのよう。

Breezeが歌唱指導を務める朝ドラ『エール!』にも出演している
アコーディオンプレイヤーさんが飛び入り出演するなどもアクセントになり、
楽しい2ステージだった。

久しぶりにライブで音楽を聴いて思ったのは、
「音って三次元、立体なんだな〜」
ってこと。

動画やオンラインでももちろん楽しめるんだけど、やっぱり情報量が比べ物にならない、生は。
同じ時間に同じ場所にいるということの圧倒的な力を感じる。

テーブルは一つおき。お客はマスク着用だからここまで離さなくてもいいと思うんだけど、安心のため……

音楽って、その時、その場所でしか成立しないものであって、
録音されたり録画されたものは、どんなに精巧にであってもやっぱり、
音楽の影でしかないのかもしれない。

歌は歌だけで成り立つものではなく、
演奏しているバンドメンバー一人ひとりとの調和の上に初めて成立する、
もっといえば、その日のライブハウスの空間も含めて音楽なのだ、
と以前ソプラノの小菅けいこさんがおっしゃっていた。
だからバンドは決して単なる伴奏、バックグラウンドではないのだと。

おしゃべり禁止! 昔のジャズ喫茶を思い出す(皆知らないよね💧)

昨日それを思い出すまで、私たちオーディエンスは単なる観客で、
パフォーマンスを見るだけ、受け取るだけと思っていた。
でもそうじゃないのかもね。
聴いている私たちの反応や感情も、もしかしたら演奏者に伝わり、
演奏を変えているのかもしれない。

そうじゃないとしても、聴衆の人数や座る位置、着ているものの材質だけだって、
物理的に音を変えているはずだしね。

最近再開されたドイツ・ブンデスリーガで、
無観客で開催されている試合で、ホームで勝てなくなっていると聞いた。
スポーツも音楽と同じなんだろうな。

私たちがもっともっとライブ会場に足を運び、演奏者の力になれるように。
私たちが演奏を変え、音楽の一部になれるように。
時々はライブ会場に行きましょう! 当面はマスク着用でね。

本当の時間、シンプルライフ

自粛期間もそろそろ終わりかぁ。
長かったなー!
いろいろやりたいこともあるし、早く終わってほしい反面、
実はこの状態が意外に居心地いいんだということに気付いている。
こんなにも、誰にも何にも追い立てられない期間て、何十年もなかったんだもん。

毎日毎食、ごはん作って片付けて、家事は増えがちだったけど、
全然忙しい気持ちにはならなかった。
毎日がゆっくり過ぎていく。
家族がいつも一緒にいる。

5月は一年でもいちばん、たくさんの花が咲く時期。花壇だけじゃなく道端や野原でも。
こんなにきれいな花がこんなにたくさん、勝手に生えてくる。
なんという豊かな世界。

時々、これは死後の世界で、
私は死んだのかな?
死んでも家族と暮らせてるのかな?
じゃあここは天国だな。
なんて思ってた。

最初の頃は、不安や苛立ちが勝っていたけど、
この頃は、元に戻るのが面倒なような気さえしている。

そんなこと思ってるの、
私だけだろうから恥ずかしい気がするけど、これをFacebookに投稿したら、
「私も」
「私もそう」
と、何人かのお友達が返信してくれた。
それも、いつもは誰よりアクティブで華やかに活躍している人ばかり。
私同様、この事態が意外にしっくりきてるのかな?

中でも、一人のママ友が、
「今が、シンプルライフなのかも……」
とつぶやき、
古くからのお友達が、
「前の通りの世界には、もう戻らない方がいいと思うー。
みんなもっとのんびりしましょー!」
と言ったのには深く共感した。

思えば1月末から、あれよあれよと状況が変わり、
私たちの生活もすっかり変わってしまった。
絶対ないと思っていたオトーサンのテレワークが常態化し、
むすめの卒業式も謝恩会も追いコンもすべて消え、
むすこの入学式も新歓も何もない。授業さえオンラインのみ。

開いているのはスーパーとドラッグストアくらいで、
まさに食住という基本だけ、「暮らし」だけで生活が完結してしまう昨今。
単調さのあまり、みんなストレスたまっている。

でも一方で、不思議なやすらぎを感じてもいるよね。
いつもは「忙しい、時間がない」でやれていなかった、
ちょっと手間のかかった料理を作ってみたり、
手の届きにくい場所の掃除や片付けをしてみたり、
子供とのんびりお話したり。
今、「暮らし」が生活の主役だ。

考えてみれば当たり前なんだけどね。
暮らすために生きているんだってこと。
今こそが、本当の時間なんだってこと。
「ワークライフバランス」なんて言ってたけど、
いつだって「ライフ」は「ワーク」を支えるための道具みたいに考えてなかったか?

在宅ワークのパパたちが、ずっといる子供たちにまとわりつかれ、
仕事にならないからあきらめてボール持って公園に出てくる姿を見て、
ちょっといいなと思った。

自粛期間が終わって、世間はまたあのあわただしさの中に帰っていくのだろう。
大打撃を被った経済を思えばそれは当然、仕方がないことかもしれない。
でも、この時期に味わった「ほんとうの時間」を、
みんな忘れないといいなと思う。
モノがないだのあるだのという話じゃない、
この本当の時間こそが、私にとって「シンプルライフ」なんだと強く思った。