スマホを紛失すると、実機なしでアプリを復活させなければならず、
なかなかに面倒だ。
今はAndoroidなので、Googleで管理できていたものに関しては、
ほぼデータが保存されていて無事だったのだが、
自分の撮った写真を見ていてわかったのは、
「自分が写っている写真がほとんどない」
こと。
撮っているのが自分なので当然なのだが、
それにしても少なくて、
そういえば、何かで顔写真を求められると困ってしまうのだ。
だいたい我が家の人々はみんな写真嫌いで、
家族で写真を撮り合ったりすることがまずない。
数年前、家族で10日間ヨーロッパに行ったけど、
家族で写っている写真なんて一枚もなく、
もちろん私の写真もない。
人物としては、私が何かの拍子に子供たちを数回撮ったくらいで、
むすこに至っては、10日間で2,3枚しか写真を撮っていなかった。
ところが、先日浅草に行った際、さまざまな国から来た観光客が、
ほぼ全員、
「人形焼きを食べている自分」
「桜の枝をかざしている自分」
を、同行の家族や友人に撮らせたり、自撮りしているのを見て、
「こうすればよかったのか!」
とようやく気づいた。
「写真を撮る」ということは今や、
「自分を撮る」ということなのかもしれない。
でもなぜか私も家族も、「自分」をすっとばして、
「自分が見ているもの」ばかり撮ってしまう。
「そこ」に行ったのは間違いなく自分なので、
自分を撮る必要はないように思うのだが、
「そこ」に行ったことを証明するのは、
自分が写りこんだ写真なのだ。
でも、面倒くさいんだよなあ、
校門や映えスポットの行列に並んで待つのが。
あと、レストランで料理を撮るのも忘れてしまう。
ついつい、撮る前に食べ始めてしまうから。
写真を撮るのって、タイヘンだ。
でもそろそろ自分も撮っておこうと思う。
遺影がなくて困るのもイヤだし。