読んだり観たり」カテゴリーアーカイブ

読んだ本、(録画して)観たテレビ番組、ライブや展示など

『Wild Soul Carnival』市川

米米CLUBのツアー「Wild Soul Carnival」、
市川文化会館を観覧。

メンバーの身内がいることもあって、
30年くらい前から時々観させてもらっているが、
オーディエンスの変遷がとても興味深い。

30年前は皆さん若くて、とにかくコスプレの多さに驚いた。
ダンサー(シュークリームシュ)の衣装をコピーした、
手の込んだドレスを銘々自作して、
会場の周辺で着替えては、ライブで踊りまくる。

もう少し経って、20年くらい前になると、
必ず二人か三人組だったコスプレが、
お供に連れた小さなお子さんと一緒の母子チームになっているのをよく見た。
うまいこと同時期に出産したチームは、
母2子2の大編成になってたりした。

10年くらい前は、子供が大きくなったからか、
再び20代のコンビやトリオが集結、
若い頃と変わらぬ華やかさでコスプレを楽しんでいるのを見た。

そして今回、アラ還が大半となったメンバーと、
あまり変わらない世代のオーディエンスは、皆立派な大人となり、
相変わらずコスプレしているコンビも散見されるものの、
テーマカラーに寄せたファッションや、ツアーTシャツなどで、
おとなしめに主張している人が目立った。

子供や親、仕事や家、
皆さんそれぞれにいろいろあるんだろうけど、
ライブ中はまだまだ皆元気にスタンディングで踊りまくり、
この日だけはあの頃に戻って思いっきり楽しんでいる。

人間、どんなに年をとっても、
20代に楽しんだことを基準にして生きていくというから、
これから何十年か経っても、あの頃の音楽を聴けば、
当時の気持ちに戻れるんだろうね。
70代になってもコスプレ頑張ってほしい気がする!

『ビゴーが観た明治職業事情』

講談社学術文庫、清水勲著

フランス人漫画家ジョルジュ・ビゴー(1860~1927)が,
明治16~17年に描き、
フランスで出版された、明治期の日本の「職業」を解説したもの。
写真の少ないこの時期にあって、資料的価値が非常に高い。

激動の明治期にあって、
さまざまな職業が雨後の筍のように生まれては消えていった様子も描かれている
こういうのを見ると、
いつだってこうだよな、仕事がうまくいかなくなったって気に病むことはない、
次行こ次、と切り替えていけばいいんだ、と楽しくなる。

ほかにも、明治時代ならではの面白い記録が散見して読み応えがあった。

「家族は自分の妾について、太政官に届ける決まり(蓄妾届)があった」

“蓄妾”というワードに衝撃を受けた。さすが日本の明治時代。

「明治10年、西南戦争が勃発すると、
佐野常民らが博愛社を創立して戦時救護を行った。明治20年、
博愛社は日本赤十字社と改称」

意外に早かった日本の赤十字。

「顔を大きく強調して描く肖像漫画は“ジャルジュ”といい、
当時のフランスで流行していた」

フランスの大首絵。

「日清戦争では戦死者1万3000人中1万1000人が脚気・凍傷などによる戦病死」

  ↑

「『朝野新聞』明治22年9月26日号は、ドイツ参謀少佐ミッケルが、
明治20年に九州で全国の参謀官を集めて行われた大演習を見学した経験から、
日本の将校の欠点を次のように指摘している、と報じている。
(1)日本将校は事を容易に為し得べきものと妄想する癖あり」

『ローマはなぜ滅んだか』

講談社現代新書、弓削達著

巨大帝国ローマがなぜ滅んだか、それを問うのは、
「当時の地中海世界(地理的意味ではなく)」と、
現代のグローバル化した世界との構造的疑似性にある、と著者。

「現代世界における支配と平和を考えるための絶好の思考実験場である」

アメリカ合衆国面積の9分の7しかなかったローマ帝国だが、
公道網の延べキロ数はほぼ同じ、というのはすごい。

しかしローマの主産業はあくまでも農業。
商工業の果たす役割は圧倒的に小さかった。
これは、陸上輸送のコストが高いためである。

実入りがいいのは土地所有者で、社会的地位も高い。
帝国の収入の一部は「戦争」(戦利品と賠償金)であった。

ローマ帝国の繁栄と見えるものは、きわめて限られた一部の支配層の、
かき集めた巨大財産から派生した仮現的現象に過ぎなかった。
共和制末期のローマ総人口120万の3割以上が国費依存の貧窮者だった。
これは支配層の浪費、退廃、倒錯と対照的である。

所有の不平等が大きくなることで、帝国は分解していく。
410年、ローマ陥落。
支配者(中心)が周辺(蛮人)にとってかわられた。

土地所有者の資産が自己増殖のように増えていくさまは、
世界の富の半分を一握りの超富裕層が握る現代とよく似ているし、
「中心」に見える「先進諸国」の人口/経済力が減少・凋落し、
新興国(次はアフリカ)にとって代わられる兆しとか、
なんだかいろいろ現代っぽい。

歴博 マンローコレクション

歴博でマンローコレクションの展示が5月9日までというので行ってきた。

小さな展示だが、目玉は1930年に撮影されたイヨマンテのフィルム上映。
これがすばらしい!


肉体はかりそめのもの。魂は何度でもよみがえり、再びヒトの世界に現れる。そのために正しく手厚くクマを饗す、それがイヨマンテ。


1930年という時代にこの祭りに着目し、価値を見出し、撮影して残すことを考えついたマンローの炯眼と、それを支えたロックフェラー財団に感謝しかない。たとえ、当時はアイヌがコーカソイドの末裔だと考えられていたためだとしても、この映像が日本文化にとってきわめて重い価値を持つことに変わりないだろう。


映像に記されたイヨマンテは、マンローが撮影のために仕立てたもので、クマは旭川から買ってきたもの、小屋は撮影のため明り取りを開けてわざわざ建てられたもの(当時の二風谷に電気はなかった)だが、人々の表情にあらわれた喜び、祈りとざわめきは本物だ。


日本に帰化し、二風谷の人として生き、1942年二風谷に没したというマンローに感謝を。
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/5457

中村吉右衛門『須磨浦』

76歳の中村吉右衛門が、コロナ禍に書き下ろした新作歌舞伎『須磨浦』が、
ETV『にっぽんの芸能』で紹介されていたのを録画していて観た。

『一谷嫩軍記』、「組討」の場から構想したという『須磨浦』は、
敦盛の身代わりに立てた我が子小次郎を手にかける直実の心情を描いたもの。
主君のために我が子を殺さねばならないという、
現在の価値観からすれば理解不能な行動が、苦悶に満ちた表情と、
二つに引き裂かれる心を表す所作で、見るうちに納得させられ、
いつのまにか感情移入してしまう。
「そうするしかなかった者」の苦しみを共に感じるようになってしまう。
悲痛というよりむしろすさまじさを感じさせる演技である。
敦盛(と見せかけた小次郎)の首を持ち、
馬の轡をとらえ悄然と去っていく直実の後ろ姿は、さながら野辺送りのようだ。

観世流の能舞台を使い、無観客で、配信のみ。
衣装も隈取りもなく(能で言えば直面?)、
紋付袴で演じられるミニマムな一人芝居。

だが背後には須磨の海が広がり、
いつしか吉右衛門の顔に隈取が見えてくるから不思議だ。
内容から、以前国立劇場で観た『伊賀越道中双六』岡崎の段を思い出す。
吉右衛門演ずる唐木政右衛門が、雪の中訪ねてきた妻を突き放し、
我が子を手にかける場面だった。
「背負ったミッションのために、自分のいちばん大切なものを犠牲にすることを余儀なくされる」
という点で共通する。

インタビューを受けている姿は、ここ数年急に小さくなり、
活舌も老人らしくなってしまったのを感じて寂しくなったが、
舞台にいる間は、エネルギーの塊のように火花を散らし、輝いていた。
同時に、新歌舞伎座のオープニングの時の『一谷嫩軍記』の映像が少し流れたが、
その時と変わらぬ力強さだった。

最近やや体調を崩しがちのようだけれど、お身体を大切にして、
末永く活躍していただきたい。
まさに当代日本一の俳優魂!

『よつばと! 15』で泣く

確定申告、やろうやろうと思ってはいるのだが、
集中力が15分しか続かず、気がつくとネットサーフィンしたり、
食べたくもないお菓子を作り出したりして全然進まない。
かといって仕事も手につかない、
そんな時に限ってむすこが『よつばと!』の15巻を買ってくる。

今度は3年近く空いたのかな? 
でも読者は辛抱強く待っている。
オビには、27か国と地域で読まれていて、
14か国語に翻訳されていると刷られている。
すごいな。この世界、ほかの国の人にもわかるのか!?
18年目にして15巻、にもかかわらず作品の中ではまだ1年が経過していない。

先に読んだむすことむすめが、
「今回は初めて回想シーンがあったよ」
というから、そろそろよつばの出生の秘密が明かされたのかなと思ったが、
全然違った。

全然ちがってたけど、その回想シーンに、
正確にいえばその直後のシーンに、
不覚にも泣かされてしまった、今回は。

うちの子たちはもう19と23ですっかり大人だけど、
だからこそ状況がカブったんだろうか。

なんというか、手のひらにすくった砂が、
指の隙間からさらさらこぼれていることが、
感触ではわかってはいても見えていなかったのが、
突然目に映ってしまった――そんな感じ。

むすめもむすこも、こんなに大きくなったのに、
小さい頃とまったく変わらずかわいい。
ずっと幸せだったけど、今が最高に幸せな気がする。
この瞬間をずっととっておければいいのに。
時間が止まればいいのに。
なんで時間を止めることはできないんだろう……

そう思うと、いてもたってもいられないような、
高い場所に駆け上っておんおん泣き叫びたいような、
そんな気持ちが温泉のように湧き上がってきて、
家族に見られないよう、こっそり陰気に泣いてしまった。

子供の成長は嬉しいことなのに、
幸せなことなのにどうしてこんな気持ちになるんだろう?

12歳くらいの頃、これと同じ気持ちになったことを不意に思い出した。

中学校からの帰り道、2歳くらいの小さい子供が、
鈴の音のようにけたたましい笑い声を上げて、
親と一緒に通り過ぎていったときのことだ。

なんて可愛いんだろう、と天使のような声を聞いて思った。
でもその気持ちの中には、
なぜか10%くらいの黒いインクがマーブル状に漂っていて、
そのインクはゆっくりと私の中で、
ごくごく薄い闇を広げていく。

闇はこう言っていた。

「可愛いよね、幸せだよね。
 だけど、いつか終わらなければならないんだよ」

なぜ、12歳の私にその声が聞こえたのかわからない。
干支を一巡して、大人に近づいた私にとって、
それは最初の「死」への準備だったんだろうか。

子供が育つということは、同時に、自分が老いるということだ。
時間を止めることは、誰にもできないんだなあ……

一緒にいられる時間がいよいよ少なくなってきたことを目の当たりにして、
少しうろたえてしまった今日だった。

『頭山』

今週のBS朝日『おなじはなし寄席』のお題は『頭山』。

昔、ラジオか何かの録音でこのはなしを聞いたとき、
すごく気に入って、また聞きたいと思っていたので大喜び。
江戸落語からは春風亭一朝、上方からは笑福亭鶴笑の両師匠。
上方では「さくらんぼ」というタイトルなのだと。

2人とも、
「このはなしはあんまりやらないんですよ」
「お客がついて来れないから……」
となんだか及び腰で、意外。

江戸先攻で上演されたが、なんだかしっくりこない。
とても丁寧な語り口で、テンポも良かったんだけどなんだか違う。
「ケチ男」の描写があまりにも薄くて、
何の噺をしているんだかだんだんわからなくなってしまった。残念。

上方なら!と引き続き聞いていると、なかなかいい。
昔聞いたときも、ポンポンポーーンと、
考える隙を与えないハイペースな語り口だったように思う。
物理や理屈がどうでもよくなるテンポってあるよね。

でも、終わったかに見えたその瞬間、
なぜかパペット落語が同じはなしをもう一度頭から……。
これにはちょっと引いたわ。
なんでそんな必要がある??

「種ごとさくらんぼを食べたケチ男が、
種を吐き出すのがもったいないと飲み込んでしまったために、
体の中から桜の木が育ち、頭に桜の木が生えて花が咲き、
そこが花見の名所となって連日の大騒ぎ、
やかましいのに腹を立てたケチ男、桜の木を抜かせてしまう。
すると折からの大雨が抜いた跡にたまり、大きな池に。
今度は釣りの名所となって再びの大騒ぎが頭の上で起こることになり、
愛想をつかしたケチ男、自分の頭の池にドボンと身を投げてしまった」

あまりにもシュールで、確かについていくのは容易ではない。
噺としてすごく面白いわけでもない。
これを面白くするのはひとえに噺家の腕で、
だからこそ私が昔聞いた噺家さんはすごい人だったんだろうと思うが、
あのパペットはないわーー。
噺だけでそこそこ面白かったのに。

説明なんかしなくていいじゃんね?
わからない人は置いていけばいいんだ。
全員が隅々までわかるように話したら面白くない噺なんだから。

ギャグを丁寧に説明されるほどしらけることはない。
なんだかわからないけど面白かった、でなんで悪いんだ。

枝雀、雀々の音源がネットに残っていたので聞いてみたけど、
私が聞いたものとは違うみたい。そもそも、「さくらんぼ」じゃなくて、
「頭山」だったから上方じゃなかったし。
あれ、誰だったのかなーー。

『スーザンのかくれんぼ』

子供の頃大好きだった本が今も流通しているらしいと知り、
大喜びで近所の児童書専門店に頼んで取り寄せてもらった。

スーザンのかくれんぼ』(ルイス・スロボドキン作、やまぬしとしこ訳、偕成社)

初版1970年! 私は新刊で読んでいたのかも。本書は2006年に復刊された新装版だった。私が読んだ版にはカバーはなくて表紙がツルツルしていた気がする。そして著者のスロボドキンを「スロボトキン」と思い込んでいた……

「スーザンは、二人の兄さんから逃げ回っていた。
“瓶に入れたクモを見せてあげるよ”と言われていたので。
お母さんや隣のおばさん、芝刈りに来るゲリーさん、
郵便屋さんにも聞いて、隠れ場所を探したけれど、
なかなかいい場所が見つからない。
――ついにスーザンが手に入れたすてきな隠れ家は――?」

という、のんびりほのぼのしたお話。

「誰にも見つからない自分だけの隠れ家を手に入れる」
って、子供の憧れだと思う。
子供だった私もこの本を繰り返し繰り返し読んで、
自分にもこんな隠れ場所がないものか、あちこち探したものだ。

茶の間の隅の茶箪笥の陰とか、
近所の森にある低い枝を伸ばした木とか、
そんな場所で一人でいるのがとても好きだった。

今、ソロキャンプがはやっていて、女性のソロキャンパーも増えているけど、
その気持ちわかるなー。
みんなと過ごすのも楽しいけど、
やっぱり時々は一人になりたいって思うもん。

この一年、ずっと家族の誰かがいる生活だったので、
今少し一人になりたい気持ち。
コロナで家にいる時間が長かった人、
私と同じ気持ちでいるんじゃないかな。

久しぶりにこの絵本を読んで、隠れ家が欲しくなった。

生きていることはたのしい

BS朝日『御法度落語 おなじはなし
という番組を最近見ている(例によって録画で)。
同じタイトルの落語を、二人の落語家が前後して上演するというもので、
一人は江戸(東京)の、もう一人は上方落語の噺家さんによる。
寄席ではありえないことで、とても斬新な番組だ。

今週は『だくだく(桃月庵白酒)/書割盗人(桂南天)』だった。

「店立てを食らった男。
持ち物全部売り払ったため引っ越し先には何もない。
汚らしい壁一面に紙を貼り、
絵心のある知り合いに好みの家具調度を描いてもらい、
物持ちのつもりで暮らし始めた。
男が寝入った頃、近眼の泥棒がやってきて、
家財道具を盗もうとするが絵なので触れることもできない。
業を煮やした泥棒、そこいらのものを「盗んだつもり」で、
かき集める所作をする。
目を覚ました男、つもりでも盗まれるのは腹立たしく、
絵に描いた槍で泥棒を「成敗するつもり」になる」
というシュールな噺だ。

白酒さんはマクラに当世風なエピソードをもってきつつ、
丁寧な描写で面白かった。
「だくだく」の題名通り、絵に描いた槍で刺されたつもりの泥棒が、
「血がだくだく流れてるつもり~~」で終わる。
南天さんの上方バージョンは、絵を描いてくれるのが、
「昔、芝居の書割(背景)描いてた」人、というところと、
描いてもらう菓子が江戸は羊羹なのに対してカステラ、
というところだけ違って後は同じ。

ただ一か所、おやっと思うセリフを、南天さんは「男」に言わせていた。
  
江戸でも上方でも、
「壁に箪笥や時計が描いてあるだけで十分豊かな気持ちで暮らせる」
と豪語するだけに、どちらの「男」も果てしなく楽天的な人物である。
共通するセリフ、
「美人が近くを歩いていれば、さりげなく並んで、
『この女は俺の女房のつもり』」
という図々しい発言に、「絵を描いてくれる人」はあきれるのだが、
その直後に、南天さんの「男」がサラっと言った一言がとてもよかった。

「生きていることはたのしい」

いかにも、頭のよくない人間がものを考えずに放った風なそのセリフを、
南天さんは男にごく無造作で無表情に言わせていた。
しかし、この一つのセリフで、
ナンセンスでシュールな噺がさらにナンセンスな、
同時に分厚いものになったと感じた。

家賃を2年(1年と12か月)もためたあげく長屋を追い出された男、
家財道具を売り払ってしまって鍋窯さえない無一物の男が言う、
「生きていることはたのしい」
には、ある種凄みがある。
このセリフとまったく同じ抑揚で、
「死ぬことなんか何でもない」
と聞かされても平静でいられそうである。

そんな男と、絵を実物に見間違って怒り出す間抜けな泥棒の、
本気なんだかどうだかわからない乱闘(のつもり)は、
このセリフの上に更にシュールになる。

この番組を何度か見たけれど、どうも私は上方落語の方が肌が合うらしい。
少し軽くて、気が抜けて、
どこか人生を舐めてかかっている(かかろうとしている)ところがだろうか。
噺家さんは皆さん一生懸命なのだろうが、
聴いているこちらの気持ちがラクになるのは、
飄々とした上方言葉のお蔭かもしれない。

『台湾 書店レボリューション』視聴メモ

『台湾 書店レボリューション』(初回放送2019年10月)NHKBS

全土の3分の2の自治体から書店が消えた台湾。
当局は減少を食い止めようと、2012年から小規模書店の振興と補助政策を始める。
一方で「独立系書店」と呼ばれる強い個性を持つ書店が生まれてきている。

別に意味はないけど絵がないと淋しいので、おいしかったロシア料理店のインテリア。

高雄の三餘書店。

1960年代のレトロなビルに入居するこの書店は、
売れ筋の本より「読んでもらいたい本」を置き、一般誌も同人誌も一緒に並べる。
二階はカフェ、三階はイベント会場、地下は読書スペース兼ギャラリー。
店長は本来デザイナー。

学生運動が盛んだった2013年にオープンした。
現在、「議論ができる書店」として、様々なジャンルの文化人が集う、
高雄市民の知の拠点として浸透しつつある。

台中市の魚麗人文主題書店。

レストランと書店が同居する。
扱うジャンルは、料理書、児童書、生活関連書籍。
蘇店長「いつも読書に助けられてきた」
「料理は異なる人々を一つにしてくれる」

台中市西部の新手書店。

文化振興のため、古い水道局の宿舎をリノベーションした建物に、
雑貨店やカフェが入居する文化施設「緑光計画」の一部。

鄭店長は大学の文学講師で、商売は素人。「新手」とは素人の意。
最初は仕入れの仕方もわからなかったが、今では独立系書店の協会に加盟、
共同で仕入れを行う。
「いちばん好きな本は『宝島』」。

台北市の田園城市生活風格書店。

建築系出版社の編集部が同居する書店、カフェコーナーや文具売り場、
古レコードも並び、ギャラリースペースも3つ備える。
こだわりの建築作品集を、クオリティの高い印刷業者と組んで出版。
紙でなければできない「本」を作っている。

編集者でもある陳店長、
「本を買わなくてもいい、毎日人が集まってくる場所にしたい」
「本を売るだけの本屋ではもう立ち行かない、本屋が何を表現するのか? 
どうやって読者に寄り添うか? それを考えよ。
少しでも余裕があるのならクリエイターたちを招き、輪を作るのだ!」

宜蘭件員山郷、小間書店。

村で初めての本屋。

米農家を志した元IT技術者の夫が、家族とともに台中から移住。
妻顕恵が古い精米所で始めた。

最初は米や野菜を並べていた。
そこにいつの間にか本が並ぶように。
新刊書は資金がないから買えない、古本だけ。
「地元の人が古本を持ってくる→買い取る→代金として野菜や果物を支払う」
だんだん、漬物や菓子を作って持ち寄る人が増えた。

このシステムは評判を呼び、他県からも客が来るように……

「(病児だった経験のある私にとって)本というのは、私の人生の一部」
学生たちが彼女を慕って集まってくるが、
「オタクとダメな女よ(笑)」

本の好きな人は、本の好きな顔をしている。
この人たちがいる限り、本はなくならないし、
本屋もなくならない。
形は変わっても。