シンプルに楽しく暮らす」カテゴリーアーカイブ

モノを持たないことだけがシンプルライフとは思っていません。過不足なく、その時々に応じて柔軟に持ち、できることを増やしていきたい。

(8)HSPキャラは片付けないと苦しい!

コロナ期間中に、自分がHSP気質だと思い知った私。
正直、この3年間は実に居心地よかった。

静かで、変化のない生活、
これ、私にとって最高に落ち着く暮らしだった。
私と同じHSPタイプの人は、皆そうだったんじゃないだろうか。

私はとにかく、情報処理にムダに時間とエネルギーを消費してしまうので、
次々に新しい情報が入ってくる環境にいるとクタクタに疲れてしまうのだ。
たくさん人がいる場所とか、たくさんモノのある空間(ショッピングモール)とか、
長くいると苦しくなってしまう。

ただ、妙に適応力はあるので、その場にいる時は特にストレスを感じないし、
そこそこ普通に振舞えてしまう。
そして帰ってからグッタリするんだけど、
その理由がいつも自分でもわからなかった。

パーティー会場や百貨店なら、帰ればいいけど、
自分の家がモノでいっぱいで散らかってたら、
逃げ場がないんだからどうしようもない。
フリーランスになって、子供が生まれて、自宅にいる時間が長くなってから、
モノを減らして片付けに励んだのはそのためだと、
これも今ならわかる。

片付けなんて好きじゃないけど、
片付けて空間上の情報量を減らさないことには、
つらくてつらくてたまらないからだ。

モノが多かろうが散らかってようが、別に大した問題じゃないのに、
HSPな人に限っては、片づけないとダメ! 生きるのが苦しくなるから。

もともとは片づけ下手だったし、今でもやっぱり散らかしてしまうけど、
もうへっちゃら!
頭を使わずに、疲れ切っていても片づけられるように、
すっかり適応したからね……

(7)「ちょうどいい暮らし」の片づけ方

「シンプルライフ」=「ちょうどいい暮らし」
というのはあくまで私の考え方で、
シンプルライフという言葉に対する考え方は人それぞれに違いありません。

ただ、どんなライフスタイルであっても、
「片づける」
ということ抜きには成立しないと思うんです。
だって、生きていれば絶対散らかるもの。

散らかってても気にならない人はいるし、
家具も持たないミニマリストなら散らかるリスクは少ない。
(でもゼロではない)

モノが少な目の家だって、それなりに散らかる時はあるし、
多くの人は雑然とした空間にずっといると苦しくなってくるものです。
だから、どんな(シンプル)ライフであっても、
やっぱりそれなりの片付けは必要。

「ちょうどいい暮らしの片付け」は、

「家じゅういつもスッキリ、ピカピカ!」
「インテリア雑誌のグラビアみたいにキレイ!」

なんていうのは目指さず、

「とりあえずイライラしない程度に」
「モノがどこにあるか10分以内に探せる程度に」
「ルンバが稼働できる程度に」

というレベルの、「そこそこ片付け」。
もちろん私はコレ。

人によっては、
「ぬるい! ゆるい! ダサい!」
ってイラつくかもしれないけど、
そういう人は徹底的にキレイにできる人なので、
自分の道を追求すればいいだけの話。

でもね、これ大事なことかもしれないんで書いとこう、
「そこそこ片付いてる」を、
「毎日」継続できたら、
それだけでけっこう大したもんだと思うんですよ。

だってみんな忙しいし、疲れてるもの。
片付け掃除のほかに、やりたいこといっぱいあるもの。

あと、
「そこそこ片付いてる」
状態からなら、
「隅から隅までピカピカ!」
に持ってく(誰か来る時とか)のは、そこまでハードル高くない。

今より1割、2割でもいい、
完璧を目指すのじゃなく、
「少しマシ」を毎日。
そんな片付けなら続くんです。

(6)ちょうどいい暮らし

「シンプルライフ」っていう言葉だといろんな定義がありすぎる。
だから私は「ちょうどいい暮らし」という言い方をしている。

余計なモノはないけど、必要なモノは全部あって、
それがすべて、自分にとって使い勝手がよくて、長く使えるもの。

だから、おしゃれなデザインだったり有名ブランドだったりするとは限らないし、
場合によっては人よりたくさん持っていることもあるだろう。
だけど、自分にとってはちょうどいい。

たとえば服なら、最新流行でもハイブランドでもないけど、
自分の体型にピッタリ合って、自分の好きな材質、色、柄、デザイン。
そんな服があったら、毎日そればかり着ると思うから、
逆にそう何着も要らないかもしれない。

そう、「ちょうどいい暮らし」って、オーダーメイドに近い。
フルオーダーなんてそうそうできるものじゃないし、
自分のことがわかっていないとオーダーのしようもない。
だから、「ちょうどいい暮らし」は、「自分のことを知っている暮らし」だと思う。

そして、「ちょうどいい」は刻々と変わる。
成長や老化、家族や住居によっても、しょっちゅう変化する。
そんな変化をよく観察して、それに合わせていかなければならない。
完璧なスタイルを構築して、そこに自分を当てはめていくんじゃなくて、
日々変わっていく自分に合わせて、細かく調整していくことになる。

こんな、人によって全然違う、
その人の中でもどんどん変わっていく暮らしは、
「こんなモノを持てばいいですよ」
「何をいくつ持てば十分ですよ」
とか言えない。
だってその人にしかわからないもの。

「ちょうどいい暮らし」は、人に見せても感心されないかもしれないけど、
とにかく自分が居心地いい。
一生かけて、そんな暮らしを追い続けていくのが、
生活だと思うのです。

自己目的化

先日、隣県のビッグモーターの前を通ったとき、
植栽が枯れていないかどうか、つい見ちゃった。
本当に毎日報道されているねぇ。

それにしても、公共の財産である街路樹を引っこ抜くことを、
「環境整備」
と呼んでいたのが本当だとしたら恐ろしいことだ。

同社に限らず、「掃除」を重要視する企業は多い。
カリスマ経営者が「掃除」に特化して書いた経営論はたくさんあるし、
企業研修でも「掃除」は好まれるテーマのようだ。

名門私立学校の中には、(今はどうか知らないが)
「半裸になって便器を素手で磨く」
ことを課していたところもあったな。
多くの国で、教室の掃除をするのは子供ではなく業者なのに対して、
日本人は掃除文化を子供の頃から叩き込まれているのかもしれない。

散らかり汚れた工場では生産効率が上がらないだろうし、
ことによっては事故が起こるかもしれない。
掃除が大切なのは本当。

でも、「掃除さえ徹底すればすべてがうまく回る」
式の論理もどうかと思うなぁ。

掃除や片付けで、確かにいろいろなことが改善するだろうし、
気持ちが明るくなることがあるのは確かだけど、
「掃除さえしてれば全部うまくいく」
わけないもん。

掃除でも片付けでもシンプルライフでも、
徹底しようとするとどうしてもそれが自己目的化していく。
掃除のための掃除になってしまって、
「自分たちが幸せになる」
という本来の目的が置き去りにされていくのだ。

本当は、掃除だけでなく、もっといろいろなことがお互いに作用した結果、
現状があるはずだ。

だけど、その経過を考えて、意見をすり合わせて、
複雑な手続きを踏んで現状を変えるのは面倒くさい。
「考える」
「考えさせる」
ことをすっ飛ばして、掃除だけしてりゃいい、
ってことになっちゃうんだろうか。

掃除は大切だけど、それが目的じゃない。
目的はいつも、幸せになること。

逆に、幸せなら、掃除なんかしなくたっていいのかもしれない。
(……いや、やっぱり少しはした方がいいと思う……)

(5)変わっていった

私が思うシンプルライフとは結局?

「何も持たない暮らしじゃない」
「何でも手作りライフじゃない」
「センスのいいおしゃれな暮らしじゃない」

じゃあ、何がシンプルなんだよ。

確かにそうなんです。何も面白くないですよね。
ここで言ったことをまとめると、

「そこそこ片付いてはいるけど、大してセンスがいいわけでもない」

ということになります。
そんなのバエないじゃん!? 

でも私、それでいいんじゃないかと思ってるんです。

「シンプルに、シンプルに」
と暮らしを変えていった頃は、
なるべくモノを減らして、生活感をなくして、
できればおしゃれにセンスよく……
と頑張っていました。

でも、私のセンスなんて知れたもの。
おしゃれを目指すのも、だんだん疲れてきました。

おしゃれとかもういい

そんなある日。
雑誌の編集者やライターの女性と、たくさんの素敵なインテリア写真を見ながら、
雑誌の企画について話していたときのことです。

その中の一人が、フフっと笑いながら、
「どれもおしゃれですね……。
 でもなんか最近私、こういうのおなかいっぱいで」
とつぶやきました。

すると、そこにいた全員が同時に、

「あーー。なんかわかるーーー」

と声を揃えたのです。

そこにいたのは、おしゃれで素敵なインテリアのお宅をさんざん取材している、
自身もおしゃれでセンスのいい女性ばかり。
なのに、その場ではなぜか、不思議な共感が生まれていました。

わかるわかる。
「ホラ、おしゃれでしょ、センスいいでしょ」
っていうの、実はだんだん疲れてくるんだよね。
私が抱いていた、言葉にならない気持ちが、
初めて言語化され、人と共有できたのがその時でした。

美人は似ている

美容整形が盛んな国では、
一般の女性も整形手術を受けることに抵抗がないと言いますね。

そんな国では、ミスコンテストのファイナリストが、
みんな似たような容貌になってしまう、
それは皆、同じモデルを目標にして、
同じ敏腕美容整形外科医に施術してもらうからだ……

なんていう話がまことしやかに囁かれたりします。

目や鼻の配列やバランスに「黄金比」なんていう言い方があるくらいだから、
美人は、どうしても似てしまうのかもしれませんね。

それと同じように、おしゃれなインテリアも、似通ってしまうのかもしれない。

「和モダン」ならこんな感じ、
「北欧テイスト」ならこんな感じ、
「ミッドセンチュリー」ならこんな感じ、
ある程度「正解」があって、それが心地よさの理由なのですから。

ただ、そういう「正解」ばかりを見ていると、
ちょっぴり疲れてくるのはなんでだろう。
ミスコンで似たような美人ばかり続けて見ているうちに、
誰が誰だかわからなくなってしまうようなものかしら。
それがあの時の、編集やライターたちの本音だったのかもしれないなぁ。

その会話に立ち会ったのは10年くらい前だったと思いますが、
それから自分の中の何かが、少しずつ変わっていきました。

(4)手作りライフでも、おしゃれライフでもない

何でも手作りライフでもない

昔のアメリカのシンプルライフについて書かれた本を読むと、
「自給自足への憧れ」「豪華さや人工的なものに眉を顰める」
みたいな記述がちょいちょい出てきます。

(宗教的に)退廃した英国を逃れ、新天地でスッキリサッパリ、
清貧のライフスタイルを実現するぞ! 
という意気込みがあったのでしょうか。
もちろんそんな意気込みはアッという間に消し飛んで、
何度も何度も「シンプルな暮らしに回帰しよう!」
って言い続けることになるんですけども。

そんなアメリカのシンプルライフといえば、
NHKでも繰り返し放映されていた『大草原の小さな家』を思い出します。
ナンもない大草原で、家族全員支え合って土地を開墾し、
何でも知恵と工夫で手作りしつつ、
貧しいながらも豊かな生活を築き上げるワイルダー家の姿に、
強い共感を覚えた人は少なくないでしょう。

同様に、根強い人気を誇る画家、ターシャ・テューダーさんも、
美しい庭園だけでなく、
シャツを作れば糸から紡いじゃう究極のナチュラルライフを送っていました。

山奥のポツンと一軒家で、家はセルフビルド、米も野菜も育て、
鶏を自分でつぶす生活っていうのも(ちょっと憧れるけど)、
そんな技術も体力もありません。梅干や部屋着ぐらいは作るけど、
梅は道の駅で買うし、生地は日暮里で、型紙だってネットで買っています。
イオンやホームセンターにもお世話になっています。
そういう意味で、ごくごく中途半端なライフスタイルではあります。

「すべて高品質なお気に入りに囲まれた暮らし」でもない

美意識の高いセレブな人たちが提案するするライフスタイルに、こういうのがありますよね。家具調度や台所で使うもの、身に着けるものも、
デザインが優れていて、品質が高いものばかり。
「なぜこれを使っているのですか?」と聞かれれれば、
すぐに明快な答えが返ってくるものばかり。カッコいい!!

でも、私は普通の人なので、「なんでこれを?」と聞かれても、
必ずしも答えられないことがあります。

「なんでって……昔、友達にもらって何となく」
「実家に余ってた」
「買いに行ったらこれがいちばん安かった」

とか、そんなカッコ悪い答えだったりすることも。

でも、自分なりにはまあまあ使い勝手が良くて、それで足りているし、
別に困ってない。
考えに考え抜いて手に入れることもたまにはあるけど、そうでもないものも多い。
考えに考え抜いて手に入れたって、
使っているうちにだんだん合わなくなってきたりもするし。

そりゃおしゃれな方がいいっちゃいいけど、
暮らすことって、別におしゃれが目的じゃないんですよね……。

(3)ここで言ってるシンプルライフって?

ここで言っているシンプルライフとは?

ところで、ここで言っている「シンプルライフ」とはどんなものか?

耳ざわりがいいけど具体性に欠けるこの言葉、みんながそれぞれのイメージを持っていると思います。
「モノを(全然)持たない暮らし」なのか? 
「何でも手作りしてゴミを出さないSDGs系の暮らし」なのか? 
「すべてお気に入りの(時として高価な)モノに囲まれた、センスのいい暮らし」なのか?

10人いれば10通りの「シンプルライフ」があるのでしょう。

なのでここでは、私なりのシンプルライフについて、ちょっと言っておきたいなと思います。まあ、ただ私が思ってるだけで、これがシンプルライフだ! なんて言うつもりはサラサラないですけどね。

(私のシンプルライフは)ミニマルライフじゃない

ミニマリズムがもてはやされるようになってからは、「シンプルライフ=ギリギリまでそぎ落とした伽藍洞のような部屋」がイメージとして定着したかもしれません。

椅子もない、テーブルもない、冷蔵庫さえなく食器は応量器一揃いのみ……といったライフスタイルも、最近ではあまり驚かれなくなりました。

しかし、私自身はこの暮らし方を「シンプルライフ」と呼んだことはないし、自分が実践したこともありません。カッコいいけど、長く続けられるものではないし(私はね)、特にやる必要を感じたことはありません。

ミニマムな暮らしは、体力かお金のどちらか、あるいはどちらもないと難しいと思います。人は、モノによって支えられ、モノによって形づくられている側面があると思うからです。本当にモノが何も要らないのであれば、こんな社会は形成されなかったし、逆に言えばこんな社会があるから、モノを持たなくても暮らしていけるのです。

普通、年をとるごとにモノは増えていきます。

若い頃視力が良かった私も、今では老眼鏡のお世話になり、高血圧家系のため、血圧計だって持っています。長生きすれば、入れ歯のケアグッズとか、杖なんかも必要になるかもしれません。失った体力や健康は、モノで代替しなければ生きていけません。

また、私は料理が好きで(別に上手じゃない)、特に近年タイ料理にハマってからは、家族に困られながらもせっせと作っては喜んでいます。

ある時とうとう、タイ料理に必須の「クロック」(石臼)を買ってしまいました!

モノは、なるべく一器多用し、代用したり省略することで増やさずにいられるものです。最初は私も、すり鉢と麺棒で頑張ってスパイスを潰していました。それでもできなくはないですが、毎日のように作るには、無理がありました。第一、楽しくない。

クロックを買った日から、すり潰す作業が何倍も楽しくなりました。香りの立ち方が違う! なんて楽しいんでしょう!

あれもこれも持てば居住空間が狭くなるし、管理も大変になります。持ちすぎるのは厄介で、暮らしを窮屈にさえします。
でも、本当に好きなもの、本当に必要なものは、もう自分の一部なのですから、我慢することはないと思う。「どうせ死ねば全部ゴミ」かもしれませんが、まだ生きてるんだもの。生きているうちは、自分らしく生きるために、モノは必要なんです。

「モノを持たない」を金科玉条にしてしまうと、「持たない」ことが自己目的化しはじめます。いちばん持っていない人がいちばんエライなら、それは死者ということになってしまう。

趣味で「持たない」ならいいと思います。健康で、お金があれば可能です。
でも、それを至上と考えると、逆に窮屈になるし、それを他人に誇ったり、押し付けたりすることがない方がいいとも思います。

(2)黒歴史・捨てたけどダメだった話

いっぺんに捨てた

子供が2歳になった頃、散らかった部屋にたいがいうんざりしていた私は、妹と語らってフリマに参加することにしました。

家中の不用品を積み上げ、売れそうなものだけ残して捨てまくりました。フリマでは、売れそうもないものに限って売れ、高かったものが売れ残ったりもしましたが、フリマで売れ残ったものも全部捨てました。家はずいぶんとスッキリして、これなら生きていける……! と安堵したものです。

ところがその1年後、我々は再びフリマに参加する羽目になるのです。1年経ったら元の木阿弥だったからです。あんなに捨てたのになんで!?

ここに来て、さすがの私も、

「これは自分の暮らし方がおかしいのでは……」

と気がつきました。捨てても売っても1年経てば元通りというのは、何かが間違っているに違いないのです。

改めて自分を観察したら……

 2回目に捨てる羽目になった不用品を見回し、フリマ後は自分のモノの買い方、持ち方に注意して観察するようになりました。すると、二つの問題点が見えてきました。

1 要りもしないモノを考えなしに買っている

・1枚当たりがおトクになるからと、3枚セット色違いの服など買っている。その中の一色しか着ないくせに。
・百均やホームセンターで、使うかもしれないと同じものを2個も3個も買ったり、目新しいものをとりあえず買っている。結局使わない。
・おトクな気がして「オマケ」がついている方を買っている。結局要らない。

2 要りもしないモノを考えなしにもらっている

・「これ、要らない?」と、友達や姑がくれるモノを、「せっかくだから」とホイホイもらっている。絶対使わないとわかっているのに断れない。そのくせ捨てられない。
・開店記念だのご来店感謝だのの、よくわからない粗品をついついもらっている。
・出先でパンフレットやフライヤーを必要以上にもらってしまう。

この二つの行動が目に余ることがわかりました。

いくら捨てたって、後から後から入ってくるんだもん、そりゃ追いつかないわ。

どんなに捨ててもダメ

その時から、「買わない」「もらわない」で済ます方法を考えるようになったのです。片付け以前に、モノの流入のハードルを高くしたわけです。後から考えると、これがいちばん効きました。片づけなければいけないモノの母数が減ったのですから。

結局、どんなに大量にモノを捨てても、自分の考え方、行動が変わらなければ、しばらく経てば元通りなのだとわかりました。そして、現代日本に暮らしている限り、普通に暮らしているだけで、モノは家の中に流入してきてしまうことも―――

なので、2回目のフリマの後、「買う」ことにはよくよく注意を払うことになり、「もらう」ことは極力避けるようになりました。

(1)自分なりのシンプルライフに至る道のり・濫觴編

以前書いてきた「シンプルライフ」について久しぶりに書いてみようと思います。

今は書く人がいっぱいいるので、今更ない書く必要もないとは思うのですが、自分の人生の区切りの一つとして、自分が困っていたこと、考えたこと、うまくいったことなど、ここで一旦まとめておきます。

モノは少なくても散らかる

私は、モノをたくさん集める人間ではありませんでした。本は比較的たくさん持っていたかもしれませんが、たまれば売ったりあげたり捨てたりして、一定数を超えることはなかったし、おしゃれじゃないから服もそんなに持ってない。

だ・け・ど、なぜか散らかるのです。

空間を把握する能力が低いからかもしれません。

一人暮らしの時も、雑然とした空間で暮らしながら、これどうにかなんないのかといつも思ってはいました。

片付けに興味のなかった20~30代初め

当時(1990年頃でしょうか)はまだ、「シンプルライフ」はレナウンのブランド名にあったくらいで、「モノを持たない」という価値観ではなく「たくさんあるモノをいかにして美しく収納するか」というのが、生活情報誌や主婦雑誌の大きなテーマでした。

この頃は、すのことかつっぱり棒とか便利グッズで「デッドスペース」を収納に変え、隙間なくモノを詰め込むことが美徳とされていましたね。そういう細かいことが苦手だったので、私には真似してもうまくいきませんでした。詰め込んだはいいが取り出せない、取り出したが最後、元に戻せないんですから。

そんな私も結婚し、同じように一人暮らしをしていた夫と暮らし始めました。

昔住んでいた敷地にあるお稲荷さんで知り合いの禰宜さんに祝詞を上げていただいただけの地味婚だったので、家具も家電も持ち寄り。持ち寄り所帯って、違うテイストの同じモノが2つずつあって、片付かないんです。

しかし、それなりに楽しく暮らしていたので、この頃はまだそんなに悩んではいませんでした。

子供が生まれ、カオスに

結婚して数年、子供が生まれました。子供が生まれても在宅で仕事を続けていると、家の中はあっという間に悲惨なことに……。

お勤めされている方だって、子供が生まれたら家の中がタイヘンなのは同じでしょうが、在宅ワーカーの場合、家が職場なので、散らかり方が半端ないのです。当時はまだ紙ベースだったので、預かった原稿やらゲラやら資料やらが2DKの我が家にあふれ返り、そこに子供服やらおもちゃやらオムツやら、大人だけで暮らしていた時の何倍ものモノが入り込んでカオス!

子供の体が弱かったこともあり、精神的にまいっていた私にとって、このカオスは地味につらかったです。この先に「育児ノイローゼ」が待ってるんだろうかと、暗い気持ちでぼんやり部屋を見回していた自分を思い出します。

丈夫でないとムリ

月曜突然発熱して以来まる3日目寝込み、
4日目はロキソニンの力でしのぎ、
5日目の今日ようやく平熱に戻って少し外を歩けるようになった。
4日間家でゴロゴロしてたら脚の筋肉が目に見えて落ちた。

平熱に戻ったとは言え、まだ少しのどが腫れていて、
熱が引いていくと同時にできた口内炎がひどく痛い。

どこか1箇所でも痛いところがあると、緊張して体が硬い。
すると肩がこるし、何をやってもパフォーマンスが悪いので、
「明日でいいや」となってしまう。

常日頃料理が好きな私だが、
「この残りとこのクズ野菜を組み合わせてアレにしちゃおう」
なんていう工夫や手間の意欲は湧いてこない。

「シンプルに暮らす」なんて体裁のいい言葉だけど、
基本、体力と時間があって成り立つ趣味の世界だ。
ひとたび風邪でもひこうものならこの体たらく。
台所は荒れ、洗濯物は積み上がり、床はほこりっぽい。

だが、そんなどん底からよみがえり、
一つずつホコリを払って、洗い、たたみ、並べ、煮炊きして、
秩序を回復するのもまた醍醐味。
暮らしは何度でも停滞し崩壊するけど、その度やり直せるのがいいものだ。

今日一日で薄紙を剥がすように喉の痛みが消えていった。
明日は口内炎がおさまってくれるといいな。
まだそうめんしか食べられないので。