(8)HSPキャラは片付けないと苦しい!

コロナ期間中に、自分がHSP気質だと思い知った私。
正直、この3年間は実に居心地よかった。

静かで、変化のない生活、
これ、私にとって最高に落ち着く暮らしだった。
私と同じHSPタイプの人は、皆そうだったんじゃないだろうか。

私はとにかく、情報処理にムダに時間とエネルギーを消費してしまうので、
次々に新しい情報が入ってくる環境にいるとクタクタに疲れてしまうのだ。
たくさん人がいる場所とか、たくさんモノのある空間(ショッピングモール)とか、
長くいると苦しくなってしまう。

ただ、妙に適応力はあるので、その場にいる時は特にストレスを感じないし、
そこそこ普通に振舞えてしまう。
そして帰ってからグッタリするんだけど、
その理由がいつも自分でもわからなかった。

パーティー会場や百貨店なら、帰ればいいけど、
自分の家がモノでいっぱいで散らかってたら、
逃げ場がないんだからどうしようもない。
フリーランスになって、子供が生まれて、自宅にいる時間が長くなってから、
モノを減らして片付けに励んだのはそのためだと、
これも今ならわかる。

片付けなんて好きじゃないけど、
片付けて空間上の情報量を減らさないことには、
つらくてつらくてたまらないからだ。

モノが多かろうが散らかってようが、別に大した問題じゃないのに、
HSPな人に限っては、片づけないとダメ! 生きるのが苦しくなるから。

もともとは片づけ下手だったし、今でもやっぱり散らかしてしまうけど、
もうへっちゃら!
頭を使わずに、疲れ切っていても片づけられるように、
すっかり適応したからね……

探偵ごっこ動画を撮る夢

横浜の港湾地区にいて、何かふざけた動画を撮ることになっている。
その前にも何か長いエピソードがあったが忘れた。

まず、開くと水に浮く設計になっているスーツケースに、
仲間(知らん人)を乗せて水に浮かべる。

閉じられたケースの中から、そいつが桃太郎よろしくパカッと現れて、
「助けて〜」
と大騒ぎしたところに、
探偵ドラマやアニメの主人公に扮した3人の仲間が現れて、
橋の上からスーツケースを指さして、順繰りに、
「真実はいつもひとつ!」
「じっちゃんの何かけて!」
みたいな決めゼリフを叫ぶ…

という筋書きだったけど、実際は、
スーツケースの中でバタついたあげく溺れそうになるし、
扮装の3人からどんどん離れていき、
同じ画面に収まらないし、
というグダグダな結果で目が覚めた。

我ながら、いつにも増して馬鹿げた夢であった。

久々登山

お盆前だったが、久々に登山をした。

登山といっても、奥多摩の御岳山だが、
仮にも登山ぽいことをしたのは、コロナが蔓延し始めた頃、
房総の伊予が岳に登ったのが最後なので、
実に3年ぶり。
(先日の戦場ヶ原は、大したアップダウンはなかった)
東京の西の方に行くのも久しぶり。

途中までケーブルカーが使えてラクラクの御岳山だが、
それでも、標高900m以上あって、
武蔵御嵩神社を戴く山頂は涼しい。

境内には犬の神様?も祀られているとかで、
ペットの犬を連れた登山者が多い。
また、コロナが明けた昨今、外国人客も増えているようで、
特に、なぜかインド人のグループが多かった。
(インドならもっと高い山がいくらでもありそうだが…)

山頂からさらに足を延ばして、いくつもの景勝地を訪ねることもできるし、
別の山を目指して縦走もできるらしい。
秋には紅葉が楽しめそうなので、
また少し経ってから登るのもいいな。

山腹には御師の集落があるなど、
信仰の山の形跡を色濃く残す御岳山、
高尾山よりも人が少なく、ラクに登れていい山だと思った。

オトーサン(夫)が急に言い出して行くことになったのだが、
こういう時彼は何も調べず、行く道すがら経路などググっていて効率が悪い。
行く前にすべての行程を調べ上げないと気が済まない私とは、
まるで真逆である。

まあ、同じ人間が二人いても面白くもなんともないので、
これはこれでいいのか。

プチドライブ

40年来の友二人と、友の一人の地元をドライブ。

私もよく観てる『孤独のグルメ』に登場した洋食屋さんでランチの後、
私が昔住んでいた駅にある、
牧野富太郎記念館を訪問、
友の家でおしゃべり、
という楽しい一日を過ごす。 

牧野記念館、当時は単なる古家だったのが、
綺麗に整備され、
朝ドラ効果もあって賑わっていた。

友と3人の話題は、老後の過ごし方について。
こんな話題が出る年になったんだな〜、
こんな話しができるまで付き合ってくれてありがとう…

今度は温泉ドライブもいいね!
太平洋岸なら私が運転するよ!

信じない人

今日、思い出したこと。

10年以上前に、ある集まりでたまたま会話を交わした、当時70代なかばの男性。
公務員の職を引退してからは、趣味のカメラを手に、自治体から交付される高齢者用のパスを活用して、あちこちに出かけては楽しんでいると話してくれた。

話上手で陽気な彼は、現役時代のエピソードを面白おかしく語った話の切れ目に、ふとこんなことを言い出した。

「私は、一切のモノを信じていません」

長年連れ添った夫人を亡くしてからは、家も土地も処分して老人ホーム暮らしをしているという。

「私は旧満州で生まれました。そこで何不自由ない暮らしをしていたが、日本が戦争に負けた。日本人は皆、着の身着のままで逃げた。小学校低学年だった私は、敗戦の混乱の中で家族を失い、引き上げ船を目指して逃げる日本人集団に、たった一人でくっついて行ったんです。その途中、道に転がるいくつもの死体を見ました。誰もそれにかまう者はなかった。あの時から私は、一切のモノは無意味だと確信したんです」

さっきまでの楽しげな様子とさほど変わらない表情で、淡々と彼は語った。
夫人の墓は作らなかった。詳細は忘れたが散骨したような話だった。子供はない。自らの死後は何も残らないよう、すでに手筈は整っているそうだ。

墓を作らなかったこと、家屋敷を黙って処分したことなど、親戚からさんざん非難されたと笑った。その笑いは、どこか乾いていた。

(7)「ちょうどいい暮らし」の片づけ方

「シンプルライフ」=「ちょうどいい暮らし」
というのはあくまで私の考え方で、
シンプルライフという言葉に対する考え方は人それぞれに違いありません。

ただ、どんなライフスタイルであっても、
「片づける」
ということ抜きには成立しないと思うんです。
だって、生きていれば絶対散らかるもの。

散らかってても気にならない人はいるし、
家具も持たないミニマリストなら散らかるリスクは少ない。
(でもゼロではない)

モノが少な目の家だって、それなりに散らかる時はあるし、
多くの人は雑然とした空間にずっといると苦しくなってくるものです。
だから、どんな(シンプル)ライフであっても、
やっぱりそれなりの片付けは必要。

「ちょうどいい暮らしの片付け」は、

「家じゅういつもスッキリ、ピカピカ!」
「インテリア雑誌のグラビアみたいにキレイ!」

なんていうのは目指さず、

「とりあえずイライラしない程度に」
「モノがどこにあるか10分以内に探せる程度に」
「ルンバが稼働できる程度に」

というレベルの、「そこそこ片付け」。
もちろん私はコレ。

人によっては、
「ぬるい! ゆるい! ダサい!」
ってイラつくかもしれないけど、
そういう人は徹底的にキレイにできる人なので、
自分の道を追求すればいいだけの話。

でもね、これ大事なことかもしれないんで書いとこう、
「そこそこ片付いてる」を、
「毎日」継続できたら、
それだけでけっこう大したもんだと思うんですよ。

だってみんな忙しいし、疲れてるもの。
片付け掃除のほかに、やりたいこといっぱいあるもの。

あと、
「そこそこ片付いてる」
状態からなら、
「隅から隅までピカピカ!」
に持ってく(誰か来る時とか)のは、そこまでハードル高くない。

今より1割、2割でもいい、
完璧を目指すのじゃなく、
「少しマシ」を毎日。
そんな片付けなら続くんです。

(6)ちょうどいい暮らし

「シンプルライフ」っていう言葉だといろんな定義がありすぎる。
だから私は「ちょうどいい暮らし」という言い方をしている。

余計なモノはないけど、必要なモノは全部あって、
それがすべて、自分にとって使い勝手がよくて、長く使えるもの。

だから、おしゃれなデザインだったり有名ブランドだったりするとは限らないし、
場合によっては人よりたくさん持っていることもあるだろう。
だけど、自分にとってはちょうどいい。

たとえば服なら、最新流行でもハイブランドでもないけど、
自分の体型にピッタリ合って、自分の好きな材質、色、柄、デザイン。
そんな服があったら、毎日そればかり着ると思うから、
逆にそう何着も要らないかもしれない。

そう、「ちょうどいい暮らし」って、オーダーメイドに近い。
フルオーダーなんてそうそうできるものじゃないし、
自分のことがわかっていないとオーダーのしようもない。
だから、「ちょうどいい暮らし」は、「自分のことを知っている暮らし」だと思う。

そして、「ちょうどいい」は刻々と変わる。
成長や老化、家族や住居によっても、しょっちゅう変化する。
そんな変化をよく観察して、それに合わせていかなければならない。
完璧なスタイルを構築して、そこに自分を当てはめていくんじゃなくて、
日々変わっていく自分に合わせて、細かく調整していくことになる。

こんな、人によって全然違う、
その人の中でもどんどん変わっていく暮らしは、
「こんなモノを持てばいいですよ」
「何をいくつ持てば十分ですよ」
とか言えない。
だってその人にしかわからないもの。

「ちょうどいい暮らし」は、人に見せても感心されないかもしれないけど、
とにかく自分が居心地いい。
一生かけて、そんな暮らしを追い続けていくのが、
生活だと思うのです。

KAWAカードのために神田川

KAWAカード 」が欲しくなったので、川を歩くことにした。

KAWAカードとは、
「国土交通省及び独立行政法人水資源機構等が管理するダムなどで配布されているダムカードと同様のフォーマットで作成した、東京都オリジナルのカード」(東京都建設局サイトより)。

ダムカードを集めている人は多いけど、KAWAカードはまだマイナーかも?
何か集める習性はないんだけど、これは川を歩くモチベーションになるかも。

このKAWAカードを配布しているのは東京都なので、
対象は東京都内の29河川になる。
手始めは、昔住んでいた部屋の近くを流れていた神田川にしよう!
どうせなら源流から川に沿って歩いてみたい。

そう思って、張り切って出かけたが、この猛暑。
源流である井の頭池から歩き出したが、
いやいや付き合わせたオトーサンが、あまりの暑さに三鷹台でギブ。
ほうほうの体で吉祥寺に戻り、お昼を食べたり、買い物しただけで帰ってしまった。

でも、「神田川の起点」が見られたし、
近くには子供や大人がザリガニや小魚を捕って遊べるエリアがあったり、
少し進むとフェンスに囲われた川底から蒲の穂が揺れていたり、
クレソンらしい葉っぱが茂っていたり、
水は意外にもきれいだった。

カードは、川の名前が表示してある看板や案内図の写真を撮り、
当該建設事務所などで提示するともらえるらしい。
どうせなら、合流する妙正寺川や善福寺川のも欲しいから、
そっちも撮ってからにしようかな~。

自己目的化

先日、隣県のビッグモーターの前を通ったとき、
植栽が枯れていないかどうか、つい見ちゃった。
本当に毎日報道されているねぇ。

それにしても、公共の財産である街路樹を引っこ抜くことを、
「環境整備」
と呼んでいたのが本当だとしたら恐ろしいことだ。

同社に限らず、「掃除」を重要視する企業は多い。
カリスマ経営者が「掃除」に特化して書いた経営論はたくさんあるし、
企業研修でも「掃除」は好まれるテーマのようだ。

名門私立学校の中には、(今はどうか知らないが)
「半裸になって便器を素手で磨く」
ことを課していたところもあったな。
多くの国で、教室の掃除をするのは子供ではなく業者なのに対して、
日本人は掃除文化を子供の頃から叩き込まれているのかもしれない。

散らかり汚れた工場では生産効率が上がらないだろうし、
ことによっては事故が起こるかもしれない。
掃除が大切なのは本当。

でも、「掃除さえ徹底すればすべてがうまく回る」
式の論理もどうかと思うなぁ。

掃除や片付けで、確かにいろいろなことが改善するだろうし、
気持ちが明るくなることがあるのは確かだけど、
「掃除さえしてれば全部うまくいく」
わけないもん。

掃除でも片付けでもシンプルライフでも、
徹底しようとするとどうしてもそれが自己目的化していく。
掃除のための掃除になってしまって、
「自分たちが幸せになる」
という本来の目的が置き去りにされていくのだ。

本当は、掃除だけでなく、もっといろいろなことがお互いに作用した結果、
現状があるはずだ。

だけど、その経過を考えて、意見をすり合わせて、
複雑な手続きを踏んで現状を変えるのは面倒くさい。
「考える」
「考えさせる」
ことをすっ飛ばして、掃除だけしてりゃいい、
ってことになっちゃうんだろうか。

掃除は大切だけど、それが目的じゃない。
目的はいつも、幸せになること。

逆に、幸せなら、掃除なんかしなくたっていいのかもしれない。
(……いや、やっぱり少しはした方がいいと思う……)