HSP~自分の中を見る~」カテゴリーアーカイブ

「いわゆる」HSP的要素が濃いことをコロナ下で認識しました。

(8)HSPキャラは片付けないと苦しい!

コロナ期間中に、自分がHSP気質だと思い知った私。
正直、この3年間は実に居心地よかった。

静かで、変化のない生活、
これ、私にとって最高に落ち着く暮らしだった。
私と同じHSPタイプの人は、皆そうだったんじゃないだろうか。

私はとにかく、情報処理にムダに時間とエネルギーを消費してしまうので、
次々に新しい情報が入ってくる環境にいるとクタクタに疲れてしまうのだ。
たくさん人がいる場所とか、たくさんモノのある空間(ショッピングモール)とか、
長くいると苦しくなってしまう。

ただ、妙に適応力はあるので、その場にいる時は特にストレスを感じないし、
そこそこ普通に振舞えてしまう。
そして帰ってからグッタリするんだけど、
その理由がいつも自分でもわからなかった。

パーティー会場や百貨店なら、帰ればいいけど、
自分の家がモノでいっぱいで散らかってたら、
逃げ場がないんだからどうしようもない。
フリーランスになって、子供が生まれて、自宅にいる時間が長くなってから、
モノを減らして片付けに励んだのはそのためだと、
これも今ならわかる。

片付けなんて好きじゃないけど、
片付けて空間上の情報量を減らさないことには、
つらくてつらくてたまらないからだ。

モノが多かろうが散らかってようが、別に大した問題じゃないのに、
HSPな人に限っては、片づけないとダメ! 生きるのが苦しくなるから。

もともとは片づけ下手だったし、今でもやっぱり散らかしてしまうけど、
もうへっちゃら!
頭を使わずに、疲れ切っていても片づけられるように、
すっかり適応したからね……

どうでもいいことばかり気がついてしまう

最近、数十年来の友人と久しぶりに会った。
友人といっても彼女は、私が学生時代にアルバイトしていた、
小さなコーヒー店の元オーナー。

バイトをやめた後も、バイト仲間と一緒にイベントに行ったり、
お互いの家を行き来するなど、
年上の友達として長く付き合ってもらっていた。

その彼女が、40年近く住んだ都心の賃貸から、
少し離れた街に引っ越したというので、
コロナ禍も下火になった安心感もあって、
新居に訪問することになった。

待ち合わせしていた駅から新居までは6~7分。
その間、私はいつものように、目に入るいろいろなものを、
何も考えずに口に出していた。

「アッこの花、この前名前調べたんだよ、〇〇〇っていうんだって」
「×××って、変わった店名だね! 人によっては入るの躊躇しそう」
「この先に△△△っていう神社があるんだね、ご利益ありそう!」
初めて訪れる場所って物珍しくて、キョロキョロしながら歩くのがすごく楽しい。

新居に上がってお茶を淹れてもらい、一息ついた後、
彼女がおかしそうに言った。
「ここに引っ越して半年経つけど、
 あんたがここに来るまで見つけたもの、
 私、今まで一個も気がつかなかったよ!
 ほんと変わらないね~、そのキョロキョロしてるとこ!」

言われてハッとしたけど、確かに、そうなのだ。
昔から、誰も気にとめない、どうでもいい些末なことに、
意味もなく気づいては嬉しくなってしまう。
そして、気づいたことを片っ端から口に出してしまう。

家族にも、呆れながらよく言われる。
「そんなものに、よく気がつくね!?気にしたこともなかったよ」

運転免許を取ったとき、運転適性判断用の性格診断テストは、
「細かいことによく気づきます。そのため、疲れやすいので、
 よく休憩をとって運転しましょう」
という診断結果だった。

その時、
「細かいことに気がつくと、なんで疲れるんだ?」
と不思議に思ったけど、今ならわかる。

どうでもいい些末なことを観察してしまうがゆえに、
脳のメモリをすぐに使い果たしてしまうのだ。
だから、情報量の多い場所を短時間で移動すると、
ものすごく疲れてしまう。

それと同じなのかもしれないけど、
人と会って長時間会話をすると、
それが相当付き合いの長い、人となりを知っている人でない限り、
別れたあとドッと疲れてしまう。

大人数の集まるパーティーなんかは特にそう。
会って話している間はとても楽しいし、
その場もそれなりに盛り上がるのに、
一人になった途端、倒れそうにクタクタになってしまうのも、
相手が発する情報を細部まで読み取ろうとしてしまう性質のせいだと思う。

この年になって、この性質の厄介さに気がついたものの、
この年になって、変えることもできない。

きっと死ぬまで、どうでもいいものをまじまじと見ては、
クタクタに疲れる人生を送るのだ。

大手町の歩道の植え込みの杭に、刺さっている靴下。 これ、3年前から刺さってるんだけど、気づいてる人いるかな

服のサブスク

「洋服のサブスク」の広告をちょいちょい見かける。
月々一定の金額を支払うと「プロのスタイリスト」が、
好みやサイズに合わせて似合う服を選んでくれた服をレンタルでき、
借りては返してとっかえひっかえ着ることができる
追加料金を支払えば、ちょっと高級なブランドの服も来るらしい。
なんか違うな、と思っても、レンタルだから手元に残らず、
「失敗した」というダメージがなくて済む。

流行はすぐにすたれる。服の好みも、若い頃はコロコロ変わる。
買っても買っても「着るものがない」と嘆く理由はそこにあるかもしれない。
こういうサービスを利用すれば、
モノを持たずに豊かなファッションライフを送ることができる、
なかなかいいサービスに思える。

でも、私は利用しないだろうな。

服とか靴とか、直接身に着けるものは、
自分というボディあっての存在だ。
どんなに服が素敵でも、自分という立体と合わなければ、
美しくも見えないし、第一気分が悪い。
着心地のよくない高級ブランド服なんて、なんの価値もない。

HSP気質の私にとって、服は着心地が第一。
肌ざわりが悪い、着ているうちにズレてくる、
丈や幅が微妙に違う、
少しでもそういう違和感があると、
一日憂鬱な気分になってしまい、パフォーマンスも上がらない。

そもそも私の体型は標準からややはみ出しているので、
既製服がまず合わない。
身長が低くて上半身が短く(Sサイズ)、
肩幅が広い寸胴体型(M~L)。
市販のワンピースでウエストマークされているものだと、
必ずボタン一つ分くらい上衣部分がたるんでしまう。
だからいろいろ工夫しているのだ。
服を自作するようになったのも工夫の一つだ。

私にとって、服は「自分を表現するもの」である以前に、
「自分を守ってくれるもの」。
着ていて気持ち悪くない生地、着ていて疲れない型紙、
自分の体型に沿った丈や幅だったら、
毎日同じその服で全然かまわない。
おしゃれとはほど遠いけど、
そんな「皮膚」のような服だけが着たいのだ。

若くて流行に関心があって、いろんなファッションを試してみたい、
そんな人たちにはサブスクはいいんだろう。

ただ、「買って、自分のものにする」ことによって、
服と自分の関係をより掘り下げること、
もっと言えば、自分の好みや体型を知ることができるんじゃないかとも思う。
似合わなかったからはい次、はい次、
って服が毎月通り過ぎるだけで、
自分が何が好きで、どう着たらいいかを考えることが抜けてしまっては、
かえってよくないんじゃないかな。

ちなみに、着たり履いたりしないので、
バッグのサブスクはありかもしれない。
(私は要らないけど)

苦肉の策

以前、「シンプルな暮らし」について原稿を書いていたことがあった。

それは別に、私がことさら綺麗好きだったとか、
ミニマリストだったからというわけではなくて、
このHSP傾向と折り合っていくために編み出した苦肉の策だったということは、
後からだんだんわかってきた。

単に音が苦手というだけでなく、
私は周囲にたくさんの「情報」があることに耐えられなかったのだ。
「モノ」は「情報」で、
私は「情報」にいちいち反応してしまうタチだった。

無地の服が好きなのは、柄やロゴを見ていると疲れてしまうから。
蔵書にカバーをかけるのは、背の色や文字を見ることで疲れてしまうから。
シャンプーやリンスを自分で買った容器に移し替えるのも、
商品名やパッケージの色を見たくないからだった。

一度にいろいろな情報を処理でできない私は、
なるべく周囲からモノを減らそうとした。
そうすることで、少しは疲れなくなるし、生きやすくなるから。
それは誰でもそうなのだろうと思っていた。

でも実際は、必ずしもそうではなかった。
みんな意外に、ガチャガチャした環境の中で、
そんなに困らず楽しく暮らしていけるものなんだ。すごい!

とはいえ、私みたいな人も、決して少なくないはずだ。
そういう人のために書いてこられたことは、よかったと思う。

千葉県我孫子市に保存されている志賀直哉の書斎。 昭和40年生まれの私が育ったのはこんな感じの家だった(ここまで渋くないけど)

HSPの自覚

HSPという言葉は知ってはいた。
でも、それが自分のことだとは思ったことがなかった。
「繊細さん」という呼び方がすでに、
自分とは無関係な響きに聞こえた。

私、大ざっぱだし、ザツだし、
どんなにコーヒー飲んでも眠けりゃ寝ちゃうし。

ところが、コロナで家族全員在宅を余儀なくされた時、
自分の意外な「繊細さ」に気づくことになった。

何しろ、「音」に滅法弱い。
そこには以前から気づいていたのだが、
長らく続けていた在宅ワーク環境に家族が入り込むようになったとき、
はっきりわかった。

人が立ったり座ったりする音だけじゃない。
紙がこすれる音、ちょっとした咳払い、
それらが自分以外3人分聞こえてくるようになると、
もはや仕事どころではない。
気が散って気が散って、何もできないのだ。

耳栓はほとんど役に立たなかったので、防音用のイヤマフを買った。夏だったので暑くて蒸れて使い物にならなかったし、音というものは、完全に遮断することはできないことを再確認しただけだった。

音を遮ることができるのは音だけ。
試行錯誤の末、ノイズキャンセリングイヤホンでホワイトノイズを聴くことで、
どうにか家族の立てる音から逃れることができた。

私がこんなに苦労しているのに、家族は一向に音が気にならないようだ。
そういえば私だけ、運転するときにラジオや音楽が聴けない。
会話はできるんだけど、それ以外の音が聞こえてくると、
まったく思考が働かなくなってしまい、
とてもじゃないけど運転なんてできない。

この頃になってようやく、
「私だけ、家族と違う体質なのかも……」
と思うようになった。


クワイエットアワー

最近聞くようになった言葉「クワイエットアワー」。
”音や光に敏感な感覚過敏という症状がある人が過ごしやすいよう店舗や施設の音や照明を調整する時間のこと ”で、私にとっては本当にありがたい変化だ。

自分でも気がつかなかったのだが、
静かに過ごすことの増えたこの数年でわかった。
趣味で音楽もやってきた割に、私は音が苦手なのだ。
音楽も会話も好きだし、都会の騒音も特に不愉快には感じないけれど、
「家電や携帯のアラーム音」
「静かな場所で聞こえてくるけたたましい談笑」
「自分が見ていないテレビの音声」
といった「音」がむやみと癇に障ってしまう。

特に苦手なのが、家電店やスーパー、ドラッグストアで聞こえてくる、
ひっきりなしの広告の音声だ。

「今なら30%オフ!! おトクでしょう~♪」
「気になるシミがみるみる落ちる!」
くどい表現と派手な音楽が、エンドレスでリピートし、
陳列棚に置かれたモニターからピカピカ光る映像が流れ続ける売り場には、
なるべく近づきたくないし、一刻も早く逃れたい。
あそこで働いている人たちが気の毒でならない。

そんなことを人に言うと、
「何を言ってるんだろうこの人」
という顔をされてしまう。
みんなはイヤじゃないの!?

こんな、どうでもいい「音」を無駄に拾ってしまうタイプの人は私だけではなかったようで、
おかげでこの「クワイエットアワー」のような取組みが広がりつつあるらしい。

「音」は私たちを疲れさせる。
コンビニでも、カフェでも、およそ商業空間と名のつく場所には、
必ずといっていいほど流されるBGMだって例外じゃない。
どうして、空間に音を満たすことが「サービス」だと思われているのだろう。
昔から、いつも不思議に思っていた。

たまにでいい。空白の時間がほしい。
脳に勝手に侵入する「音」を止めてほしい。
そんな希望が少し、かなった気がしてありがたい。

『スーザンのかくれんぼ』

子供の頃大好きだった本が今も流通しているらしいと知り、
大喜びで近所の児童書専門店に頼んで取り寄せてもらった。

スーザンのかくれんぼ』(ルイス・スロボドキン作、やまぬしとしこ訳、偕成社)

初版1970年! 私は新刊で読んでいたのかも。本書は2006年に復刊された新装版だった。私が読んだ版にはカバーはなくて表紙がツルツルしていた気がする。そして著者のスロボドキンを「スロボトキン」と思い込んでいた……

「スーザンは、二人の兄さんから逃げ回っていた。
“瓶に入れたクモを見せてあげるよ”と言われていたので。
お母さんや隣のおばさん、芝刈りに来るゲリーさん、
郵便屋さんにも聞いて、隠れ場所を探したけれど、
なかなかいい場所が見つからない。
――ついにスーザンが手に入れたすてきな隠れ家は――?」

という、のんびりほのぼのしたお話。

「誰にも見つからない自分だけの隠れ家を手に入れる」
って、子供の憧れだと思う。
子供だった私もこの本を繰り返し繰り返し読んで、
自分にもこんな隠れ場所がないものか、あちこち探したものだ。

茶の間の隅の茶箪笥の陰とか、
近所の森にある低い枝を伸ばした木とか、
そんな場所で一人でいるのがとても好きだった。

今、ソロキャンプがはやっていて、女性のソロキャンパーも増えているけど、
その気持ちわかるなー。
みんなと過ごすのも楽しいけど、
やっぱり時々は一人になりたいって思うもん。

この一年、ずっと家族の誰かがいる生活だったので、
今少し一人になりたい気持ち。
コロナで家にいる時間が長かった人、
私と同じ気持ちでいるんじゃないかな。

久しぶりにこの絵本を読んで、隠れ家が欲しくなった。

真に受ける私

自分のこの、何でも真に受けてしまう性格に困っている。悲しい事件、腹の立つ政治、テレビのニュースなんか見てるともうてきめんに体調悪くなる。ニュースじゃなくて直接見聞きしたことならなおさら。

自分のことじゃないんだし、そもそも自分にはどうしようもないことを、いちいち真に受けてんなっつーの。そんなに落ち込むなら、解決に向けて行動しろよ? と自分に突っ込むんだけど。

そんな私がいつも尊敬するのは、看護師さん。ナースしてる友達は、皆元気で明るく、自分の生活も大事にしている。病気と、それがもたらす不和や貧困、時として死、世の中の一番つらい部分を毎日のように見ているのに、決して自分の生活にまで引きずらず、朗らかさを失わない。あれは、対象と自分とをきちんと切り離してとらえることができているからだと思う。

私もああなりたい。でもなれない。いつまでたっても、対象と自分を一体化させてしまう。それもベッタリ。ネガティブな性格は年取っても変わらない……。

大勢が苦手

img_3519大勢の集まりは楽しいけど向いてない。
その時は楽しく感じるんだけど、後で必ず強い疲労とともに虚しさが襲ってくる。

思うに、場の賑わいにつられてテンションが上がり、
それと「なんか喋らなきゃ」という謎の義務感が湧いてきて、
誰彼なく陽気に喋り続けるんだな。

そのくせ、喋るのに一生懸命なあまり、
結局相手の名前も仕事も碌に覚えられず、
べらべら喋っていた自分が恥ずかしくなるだけ。
何も残らない。
そんな風に感じてしまうんだろう。

たくさん人寄せをするのが得意な人は、
人が集まれば集まるほと、
そのエネルギーを自分のものに変換することができているのかと思う。
自我が拡大するというか。

私にはムリ。人数割りで削られるのがオチだ。
私の限界は5人。
コンパクトカーの乗員以下だ。

ちっちぇー人間で一生を終わろう。