シンプルに楽しく暮らす」カテゴリーアーカイブ

モノを持たないことだけがシンプルライフとは思っていません。過不足なく、その時々に応じて柔軟に持ち、できることを増やしていきたい。

苦肉の策

以前、「シンプルな暮らし」について原稿を書いていたことがあった。

それは別に、私がことさら綺麗好きだったとか、
ミニマリストだったからというわけではなくて、
このHSP傾向と折り合っていくために編み出した苦肉の策だったということは、
後からだんだんわかってきた。

単に音が苦手というだけでなく、
私は周囲にたくさんの「情報」があることに耐えられなかったのだ。
「モノ」は「情報」で、
私は「情報」にいちいち反応してしまうタチだった。

無地の服が好きなのは、柄やロゴを見ていると疲れてしまうから。
蔵書にカバーをかけるのは、背の色や文字を見ることで疲れてしまうから。
シャンプーやリンスを自分で買った容器に移し替えるのも、
商品名やパッケージの色を見たくないからだった。

一度にいろいろな情報を処理でできない私は、
なるべく周囲からモノを減らそうとした。
そうすることで、少しは疲れなくなるし、生きやすくなるから。
それは誰でもそうなのだろうと思っていた。

でも実際は、必ずしもそうではなかった。
みんな意外に、ガチャガチャした環境の中で、
そんなに困らず楽しく暮らしていけるものなんだ。すごい!

とはいえ、私みたいな人も、決して少なくないはずだ。
そういう人のために書いてこられたことは、よかったと思う。

千葉県我孫子市に保存されている志賀直哉の書斎。 昭和40年生まれの私が育ったのはこんな感じの家だった(ここまで渋くないけど)

ただ一つだけやるならこの家事

私、家事って趣味だと思っている。

「私にとっては趣味」
という意味ではなく、
「家事なんてたしなむ程度の趣味でいい」
「やらなきゃやらなくたってかまわない」
という意味。

私は毎日家族と自分のごはんを作るけど、
それは趣味だから。
お弁当だって外食だってあるんだから、
忙しい人、料理が好きじゃない人は、
作らなくたっていいじゃん。

掃除も、洗濯も、
やるかやらないか、どうやるか、
全部趣味の問題。
趣味だから、上手な人を参考にしたりはするけど、
「こうするべき」
なんて言われても困ってしまう。

そんな「趣味の家事」の中で、
こ・れ・だ・け・は・ぜ・っ・た・い
やった方がいいと思っているものが、

「ゴミ捨て」

極端な話、ゴミさえ捨ててれば、あとはどうにでもなる。
いちばんどうにかなるのが食事。
散らかっててもホコリたまっても死にはしないし、
掃除なんかお金出せば代行してもらえる。
洗濯だって、服をたくさん持って、
ため込んだあげくクリーニングに出せばいい。

だけど、ゴミはためると始末が悪い。
ためるくらいだから分別なんかしてないだろうし、
ゴミが増え続ければ生活空間は圧迫されて、
どんどん家が狭く汚く臭くなり、虫だって湧くかもしれない。

他人にはゴミとそうでないものの区別はできないから、
(明らかにゴミに見えるけど当人にとっては必要かもしれない)
日常のゴミ捨てを他人に委託するのはむずかしい。

家事が苦手だろうが、嫌いだろうが、
これだけはできないと困ると思う。

ゴミ出しもやりたくないなら、
家に極力モノを持ち込まず、すべて外食にするか、
ホテル暮らしをするしかないかもね。

捨てなくてOK

「モノを減らしたいけど捨てられない」
のなら、
「買わない」
「もらわない」
を徹底するのがいちばんだと思う。
補給を断てばモノは減っていく。
なくならないモノも、傷んですり減っていくので、
捨てるふんぎりがつきやすくなる。

「捨てられない」
のは、
「モトをとっていない」
という無念の思い、モノの怨念のせいだから。

すり切れ、傷つき、破れていくことで、
十分使い果たした、モトをとった、
という満足感になる。

ボロボロになってもまだ捨てられないという場合は、
親の形見とかでもない限り、もう心の病かなにかなので、
誰にも捨てさせることはできないと思う。

いいよ捨てなくて。
どの道最期の最期はすべて捨てていかなければならないんだから。

花のサブスク

少し前から「花のサブスク」が登場して、よくネットの広告を見る。
あれ、なかなかいい商品だと思う。

昔、「花を飾ると部屋が片づく」というテーマで原稿を書いていたけれど、
あれは自分の経験から出たものだった。

部屋が片づかなかった頃、『婦人之友』を創刊した羽仁もと子氏が、
「部屋も片づいていないのに花なんか飾ったって仕方ないでしょう」
と強い調子で言っていた……という話をどこかで読んだ。
その時は、
「そりゃそうだよなあ」
と、片づけられない自分に忸怩たる思いを抱きつつ、
花なんか飾ったって仕方ないんだと思っていた。

しかし、だいぶ後になって、やや片づけられるようになってきた頃、
頑張って片づけた部屋に花を飾ると、散らかるのが遅くなることに気がついた。
花があるだけで、なんとなくその周囲をきれいにしようという気持ちが働くかららしい。

そこで、なるべく部屋に花を欠かさないように努めてみた。
毎回ちゃんとした花束を飾ると出費がかさむから、1本か2本ずつだけど。

そうすると、本当に散らからなくなるし、片づけが加速するのだ。
花は、部屋の守り神になった。

切り花を長持ちさせようとすれば、こまめに水を替えなければならない。
水を替えるとき、ついでに花瓶の周りをちょいちょいと片づける。
花のある空間だけでも、きれいにしようという気持ちが働く。
たとえ部屋の一ヵ所だけでも、整った場所ができると、気持ちが落ち着く。

花を飾る→水を替える→周りを片づける

これを繰り返すことで、生活が次第に整ってくるのがわかった。
私のような人間にこそ、花は必要なのだ。
羽仁もと子先生のような優れた人にはわからなかったのだろう、
凡人の行動のしくみが。

今の家に引っ越す前に住んでいた町で、子どもをうちの子と同じ保育園に行かせているママがいた。
そのお宅は、今ふうのセンスとは少し違う、昭和感漂う家だったのだが、いつ行っても玄関に立派な花が活けてあり、部屋は気持ちよく片づいていた。
ママのお母さん(おばあちゃん)のお友達が華道の先生で、週に一度習いに行っているのだそう。飾 ってあるのはお教室で使った花材なのだった。

洋風のフラワーアレンジとは違い、正統派の華道なので、
やや重々しく、校長室の雰囲気が漂ってはいたが、
紛れもなくその周辺の空気はさわやかで、整っていた。
それは、造花では決して作れない空気だ。
生きているものに対する無意識の畏敬の感情だ。

民俗学で「予祝儀礼」というのがあった。
稲作の豊かな実りを願うとき、春の耕作に先駆けて、予め豊作になるという前提で祭りを行う。
つまり、「こんなにたくさんお米がとれました。神様ありがとう」
と祝ってしまうのだ。
すると、神様はその通りにたくさんの実りを与えてくれる(はずだ)――。

これと同じで、とりあえず花を飾ってしまうことで、
一部ではあるが美しい状態を作り出し、後付けのように片づけていき、それを継続する、
というのがこの「花飾り作戦」だったのかもしれない。

サブスクのお花はとてもいいアイディアだけど、
本当なら自分で花屋で選びたいんだよね。
花屋では季節を感じることもできるし、花屋さんとの会話は花の生け方、長持ちする方法なんかも教えてもらえるし。

とはいえ、忙しい人にはなかなかいい方法だと思う。
予めの祝福、やってみる価値はある。

少し前から「花のサブスク」が登場して、よくネットの広告を見る。
あれ、なかなかいい商品だと思う。

昔、「花を飾ると部屋が片づく」というテーマで原稿を書いていたけれど、
あれは自分の経験から出たものだった。

部屋が片づかなかった頃、『婦人之友』を創刊した羽仁もと子氏が、
「部屋も片づいていないのに花なんか飾ったって仕方ないでしょう」
と強い調子で言っていた……という話をどこかで読んだ。
その時は、
「そりゃそうだよなあ」
と、片づけられない自分に忸怩たる思いを抱きつつ、
花なんか飾ったって仕方ないんだと思っていた。

しかし、だいぶ後になって、やや片づけられるようになってきた頃、
頑張って片づけた部屋に花を飾ると、散らかるのが遅くなることに気がついた。
花があるだけで、なんとなくその周囲をきれいにしようという気持ちが働くかららしい。

そこで、なるべく部屋に花を欠かさないように努めてみた。
毎回ちゃんとした花束を飾ると出費がかさむから、1本か2本ずつだけど。

そうすると、本当に散らからなくなるし、片づけが加速するのだ。
花は、部屋の守り神になった。

切り花を長持ちさせようとすれば、こまめに水を替えなければならない。
水を替えるとき、ついでに花瓶の周りをちょいちょいと片づける。
花のある空間だけでも、きれいにしようという気持ちが働く。
たとえ部屋の一ヵ所だけでも、整った場所ができると、気持ちが落ち着く。

花を飾る→水を替える→周りを片づける

これを繰り返すことで、生活が次第に整ってくるのがわかった。
私のような人間にこそ、花は必要なのだ。
羽仁もと子先生のような優れた人にはわからなかったのだろう、
凡人の行動のしくみが。

今の家に引っ越す前に住んでいた町で、子どもをうちの子と同じ保育園に行かせているママがいた。
そのお宅は、今ふうのセンスとは少し違う、昭和感漂う家だったのだが、いつ行っても玄関に立派な花が活けてあり、部屋は気持ちよく片づいていた。
ママのお母さん(おばあちゃん)のお友達が華道の先生で、週に一度習いに行っているのだそう。飾 ってあるのはお教室で使った花材なのだった。

洋風のフラワーアレンジとは違い、正統派の華道なので、
やや重々しく、校長室の雰囲気が漂ってはいたが、
紛れもなくその周辺の空気はさわやかで、整っていた。
それは、造花では決して作れない空気だ。
生きているものに対する無意識の畏敬の感情だ。

民俗学で「予祝儀礼」というのがあった。
稲作の豊かな実りを願うとき、春の耕作に先駆けて、予め豊作になるという前提で祭りを行う。
つまり、「こんなにたくさんお米がとれました。神様ありがとう」
と祝ってしまうのだ。
すると、神様はその通りにたくさんの実りを与えてくれる(はずだ)――。

これと同じで、とりあえず花を飾ってしまうことで、
一部ではあるが美しい状態を作り出し、後付けのように片づけていき、それを継続する、
というのがこの「花飾り作戦」だったのかもしれない。

サブスクはとてもいいアイディアだけど、
本当なら自分で花屋で選びたいんだよね。
花屋では季節を感じることもできるし、花屋さんとの会話は花の生け方、長持ちする方法なんかも教えてもらえるし。

とはいえ、忙しい人にはベストの選択かもしれない。
予めの祝福、やってみる価値はある。

炊飯器はないけどクロックを買った

炊飯器を持っていない。

結婚した頃までは、一人暮らし時代の小さな炊飯器を使っていたけれど、もともともらいものだったし、使い勝手が悪く、次第に使わなくなってしまった。やはり一人暮らしをしていた夫も似たようなチャチな炊飯器を持ってきたけれど、使う気がしなかった。結婚してからは、ずっと鍋でごはんを炊いてきた。

オーブン機能つき電子レンジだけは買って、それは25年使うことになるのだが、オーブントースターやコーヒーメーカーは持たなかった。台所に電気コードがいっぱいあるのがイヤだったから。

ずっと狭い台所を使ってきたので、作り付けの収納に収まるだけのものしか持てない。鍋も食器も、できるだけ少ない数でやりくりしてきた。それで特段困ることもなかった。

しかしここに至って、私は買ってしまったのである。「クロック」を。

クロックとは、タイ料理を作る際に必須とされる調理用具で、石でできた叩き鉢である。鉢とセットになった石の棒も一緒についてきた。ここ数年入れ上げているタイ料理を作るために購入した。

何か欲しくなったときは必ず、今あるもので代用できないか考える。
基本的な道具を持っていればたいていはどうにか代用することができるものだ。
クロックだって、中鉢としても使っているすり鉢でじゅうぶん代用できるはずだった。タイ料理のレシピ本にも、そう書いてあるものがあった。

やってみたところ、確かに代用できなくはない。
タイ料理は、やたらといろいろなものをペースト状にして使う。食材を調味料と合わせて、まるで味噌のように滑らかになるまでつぶす。すり鉢とすりこぎでゴリゴリと気長にすりつぶせば、まあまあ近いところまでできる。

いや、できない。
近いけど違うものになってしまう。

すり鉢は、もともと形のない味噌や豆腐を更に滑らかにしたり、ゴマをある程度細かくしたりすることはできるけれど、それは「摺る」であって、「叩く」ではない。タイ料理で作るペーストの素材は、パクチーの根、にんにく、唐辛子といった、さまざまなテクスチャー、さまざまな形をしていて、それを硬い石どうしを使って「叩き潰す」ことで滑らかになる。すり鉢の「すり潰す」では、どうしても最終的な滑らかさが出ない。それと重要なことだが、「作っていて楽しくない」。

タイレストランの厨房を外から覗いてみると、オーダーが入ると必ず、このクロックでゴツゴツと何かを叩き潰し始める。その様子が、いかにも「おいしいものを作っている!」という気合に満ちていて、期待が高まるのだ。

何度も繰り返し作るうちに、どうしてもすり鉢では満足できなくなってしまい、ついにいつも行くタイ食材でクロックを手に入れたというわけである。
食材店の(タイ人にしては)不愛想なおかみさんは、使い方、手入れの仕方を教えてくれて、
「足の上に落とさないように」
とアドバイスまでしてくれた。クロックは大きくはないが、とても重いのだ。

こうして、炊飯器のない台所に、クロックがやってきた。
その日からクロックは大活躍だ。
ゴツゴツ、ゴツゴツ、ハーブやスパイスを叩き潰すとき、目の覚めるような香りがパアっと立つ。この香りが、私は大好きなのだ。コブミカンの硬い繊維だって、レモングラスだって、手早くペーストにできてしまう。陶器と木のセットとは比べ物にならない。溝を竹串でほじくらなくても済む。ああ、もっと早く買えばよかった。

若い頃、ものをなるべく持たないようにしたいと思って読んだライフスタイル本の著者は素晴らしくセンスの良い方で憧れていたが、
「油は一種類だけで十分です」
と書いてあったのは真似できなかった。
いろいろなものを作りたい私には、ごま油も菜種油も必要だったから。
服は最低限でいいけれど、「食」にはバリエーションを求めるタイプだったのだ。

ものを持たないことが目的なんじゃない。
幸せに暮らすことが目的なんだ。

もうちょっと年をとって、ごはんの鍋炊きが苦痛になるかもしれない。コーヒーを手落としするのが面倒になるかもしれない。その時は炊飯器を買い、コーヒーメーカーを買うかもしれない。

でも今は、鍋でごはんを炊いて、クロックでスパイスをすりつぶす。
クロックが重く感じられるまではまだ間があるだろう。
この暮らしが、今の私にはいちばん居心地よくて、楽しいのだ。

お皿が割れた日

今日、30年連れ添ったFOB-COOPのお皿を割ってしまった。
洗い物をしていた手がすべって、包丁の背が当たっただけなのに、あっけなく真っ二つに。
誕生日に友達が2枚くれたうちの生き残りの1枚で、ちょっとファイヤーキングっぽい乳白色の、直径19センチのものだった。この皿を基準に、その後持つすべての食器のサイズや色を決めてきたんだけれど。

30年は長い。結婚したのが26年前だから、夫より付き合いは長い。
朝に晩にほぼ毎日使い、まさに相棒だったお皿。
モノは単なるモノなんだけど、これだけ一緒に暮らすと、もう自分の一部のようだ。その一部が壊れると、なかなかこたえるものがあるな。

でも、金継ぎして使おうとか、とっておこうという気はない。
もうこの皿はその役割を十分に果たし、使命を終えたのだ。
感謝して、次の不燃ゴミの日に送り出そう。

それにしても、むすめが食器棚から食器をごっそり持って出たので、最近食器が不足気味だ。そしてなぜかここに来て、食器が続けざまに割れている。
これは、食器を一新せよという神のお告げ?
でも、今、買い物に出るのがはばかられる。手に取って使うものを通販では買いたくない。

2回目の接種が終わってしばらくしたら、まずは食器を探す旅に出ようかな!

自分の空間を手に入れた

むすめが独立した。
一人暮らしするいとこたちに憧れ、「社会人になったら私も」と、インテリア記事を切り抜いたり、IKEAのカタログを読みふけったり、イメージトレーニングをしてきた。

何しろ、我が家は平凡な田の字マンションで、本来は3LDK。一部屋をピアノ用の防音室にしてしまったので、二人の子供たちに与えることができたのは9畳の一室のみだった。男女のきょうだいなので、上の子(むすめ)の中学入学に際して、部屋をアコーディオンカーテンで仕切り、天井付けの照明を二つに増やしただけで対応してきた。
完全な個室ではないので、友達も呼びにくいし、いろいろ不満はあったようだが、部屋数を増やすために住み替えるのも面倒でここまで来てしまった。

コロナのせいもあり、予定よりも独立が遅れたが、その分資金も貯まって、希望通りの物件が見つかった。引っ越し当日は、むすめが借りてきたハイエースに家族4人が乗り込み、あっという間に荷物の移動は終わった。

今まで親が使っていた6畳の寝室にはむすこが入居し、ギターやらオーディオやらを並べて満足げである。9畳のアコーディオンカーテンの片側を我々が寝室とし、むすめがいた側がまるまる空いた。ここが、私のスペースとなった。

防音室はなかば夫のスペースでもあり、彼の私物もここに置いてある。ところが、ずっと家で仕事をしてきた私の部屋って、今までなかったのだ。

以前は6畳の寝室の片隅の1畳もない空間を無理やり仕切って小さな机を置き、そこを仕事場にしていたが、いつからか、そこで仕事をするのがつらくてたまらなくなってしまった。かといって、リビングでは落ち着かない。いつからか、台所に折りたたみテーブルとノートパソコンを持ち込み、そこを仕事場とする日々が続いた。うちの台所、3畳しかないというのに!

その狭さから解放され、今、かつてないほど恵まれたスペースを手に入れた。パソコン用の机と、むすめが置いていったタンスが一竿、ここ数年凝り出した洋裁用に、アイロンや製図用の机まで並べているのである。寝室の隅や台所の隅からの大変革である。

しかし、机を置く場所がなかなか定まらない。私は、何か書いているところを人に見られるのが極端にイヤなのだ。寝室に入ろうとする夫が机のそばを通り過ぎるたびイライラするし、「何書いてるの」なんて尋ねられると、反射的にひっぱたきたくなってしまう。この前も、ついカッとなって険悪な雰囲気になってしまった。彼には何の落ち度もないのに……。でも、こういう同業者、けっこう多いと思う。なにか書いたり描いたりするのって、完全に一人にならないと難しい。子供が小さい頃は、全員が寝静まったよ墓の2時頃がいちばんはかどったものだ。

むすめが自分の城を手に入れて、私も自分のスペースを手に入れたわけだが、私の試行錯誤はまだしばらく続く見込みである。

もう白一色じゃない

子供が生まれた頃から、食器類を白一色で揃えた。

大中小の白い皿、それと同じシリーズの小鉢、

麺類用の丼。

個人用の飯碗と数枚の大皿、多めに持った豆皿のみ、色柄のあるものだった。

湯呑もコーヒーカップもなく、耐熱グラス一種類のみ。

台所に作り付けの食器棚に全部収まったし、なんならスカスカだった。

子育てと仕事に追われ、毎日クタクタだったその頃、

食器はそうでなければならなかった。

「この料理にはこのうつわ」

なんて、おしゃれマダムみたいな優雅なことは言っていられなかった。

ごはんを作って、食べさせて、片づける、

それで日々精一杯だったのだから。

上の子が高校生になったある日、実家で食事をしていて、

「柄のある食器っていいねえ」

とつぶやくのを聞いた。

実家の食器棚は脈絡のない色柄物の食器が溢れかえっていて、

実家にいた頃の私はそれがイヤでたまらなかったのに。

しかし、そのつぶやきを聞いた日から、

あれほど私を助けてくれたサッパリした食器棚が、

突然、味気なく寂しいものに見えてきたから不思議だ。

その頃から、皿が一枚割れるたびに、同じサイズの色柄物の皿に入れ替えてきた。

15年も経てば、皿も割れだすらしい。

それまで持たないようにしていた、和食器の中鉢なんかも持つようになった。

食器棚の秩序は少しずつ崩れていったが、意外にも収納が足りなくなることはなかった。

もともとスペースが空いていたこともあるけれど、

買い替える食器は必ず、割れたものと同じサイズ、同じカーブのものを選んだからだ。

これなら、従来と同じ場所に重ねられるし、

新たに買う中鉢も必ず入れ子になるデザインのものにした。

白一色ではなくなった食器棚だが、実家の食器棚のような放埓な色彩はない。

私が好きなのが寒色なので、結局色柄物であっても、

白、青、緑に落ち着いてしまうからだと思う。

食器は一点一点別々に買うようにしている。

贈答品にありがちな「5点柄違いセット」は大嫌いだ。

必ずどれか、好みではないデザインが混じっているから。

それが、そこまで嫌いなデザインじゃなかったとしても、

1点でもイヤなアイテムがあったとしたら、大損ではないか。

食器なんて、気に入らないものほど割れないんだから。

ちなみに、一時気に入って少しずつ揃えた薄手のやや高価なグラスは、

後から後から割れてしまって、もう一点しか残っていない。

できるか!? 三面構成

三面構成の服の本をちょっと見て、難しそうなのであきらめていた。
「マチのある服」なら、厚みのついた今の身体にも着やすそうなんだけど、
掲載されているのはおしゃれドレスで、
私が扱えるような生地でもデザインでもなかったから。
家で着る普段着が欲しいんだけどな。

ところが、むすめにつき合ってGUを見ていたら、
何と三面構成のカットソーワンピースを発見!
着ちゃうと形が崩れるから買ってすぐにほどき、
型紙をとってみた。

型紙をとっている時点で、けっこう縫うのが難しそうな予感がする。
でも、やってみたい。
まずは、ポケットも袖もつけずに、
シーチングみたいな布で縫ってみるつもり。
本当は、麻とかネルで作りたいんだけどね。

ほどいてハトロン紙に写す。右のパーツが「マチ」に当たる脇身頃(っていうのかな)。

ほどきながらわかったんだけど、
低価格の服といえど、とてもしっかり作られていて、
随所に細かい工夫がされている。
私にはとてもこんなことできない。

マレーシア製だったけど、工賃いくらなんだろう……

テレビでお皿を洗っています

我が家の食洗器はコレ、
録画できるポータブルテレビ。
もちろん、お皿を洗う機能はありません。
ここに録画した面白い番組を観ながらなら、
お皿洗いなんてあっという間に終わってしまう。

パナソニックのプライベートビエラ。もう3年くらい使っているのでバッテリーがへたってきて、ACアダプタなしでは使えません。大学生のむすこがいつもリビングにいて気が散るので、カウンターの上にタオルをカーテン代わりにかけている

以前は、テレビはほとんど見なかった。
テレビを見ることができる時間に、
自分が見たい番組なんてやってたためしがないし、
見たい番組を放映している時間は、私の方が忙しい。
だからといって、録画してまで見るのはめんどう。
第一、わざわざテレビを見るだけのためにずっと座ってるなんて、
なんかもったいなくない?

最初は、お風呂用だった。
私は、とにかくずっと同じ場所にいるのが苦手で、
湯船にゆっくり浸かるなんてめんどうと思っていた。
だから烏の行水、お風呂が苦手。

そこで、録画機能のある防水テレビを導入、
お風呂に入りながら見るようにしたら、大成功!
お風呂が退屈じゃなくなった。
「お風呂にじっとして入る」×「じっとテレビを見る」
という二大苦手なものが、楽しい時間に変わった。

旅番組、歴史番組、料理番組、
ちょっとしたドラマ、科学番組、
どれも楽しい。
今までテレビ見なくてソンしてたわ。

以前は絶対見なかった深夜番組も、録画だから見られる。テレ東の深夜ドラマに面白いのが多くて楽しみ

そのうちテレビを台所に置くようになったら、
もう天国。
山と積み上がった皿洗いも、あくぬき下茹で千切りなど、
料理の下ごしらえも、
知りたかったこと、面白い物語を見ながら、
魔法のようにいつの間にか終わってる。

包丁を使うとき、手元が危なくないかと思っていたんだけど、
私の場合、八割方耳からの情報だけでテレビを見てるので、
画面は時々見ればOK。
(揚げ物など高温調理の時は見ない)
水仕事のときはイヤホンしてれば水音でかきけされたりしないし、
聞き逃したり見落としたりしても、画面を戻せば大丈夫。

以前は台所ではラジオを聴いていた。
でも、自分の聞きたいものがいつも流れているわけじゃないので、
録画で自分が見たいものだけ見られるこのテレビの方がいい。

私はワガママなんだと思う。
時間も、内容も、全部自分の思う通りになる録画は、
そんな私にピッタリだった。

一人台所で作業していると、なんだか孤独になったりするものだけど、
このテレビを使うようになってから、
「自分だけ楽しい思いしてる」
という優越感みたいなものすら抱くようになった。

台所仕事とテレビ(ただし録画に限る)、
最高に相性がいいと今では思ってる。