花のサブスク

少し前から「花のサブスク」が登場して、よくネットの広告を見る。
あれ、なかなかいい商品だと思う。

昔、「花を飾ると部屋が片づく」というテーマで原稿を書いていたけれど、
あれは自分の経験から出たものだった。

部屋が片づかなかった頃、『婦人之友』を創刊した羽仁もと子氏が、
「部屋も片づいていないのに花なんか飾ったって仕方ないでしょう」
と強い調子で言っていた……という話をどこかで読んだ。
その時は、
「そりゃそうだよなあ」
と、片づけられない自分に忸怩たる思いを抱きつつ、
花なんか飾ったって仕方ないんだと思っていた。

しかし、だいぶ後になって、やや片づけられるようになってきた頃、
頑張って片づけた部屋に花を飾ると、散らかるのが遅くなることに気がついた。
花があるだけで、なんとなくその周囲をきれいにしようという気持ちが働くかららしい。

そこで、なるべく部屋に花を欠かさないように努めてみた。
毎回ちゃんとした花束を飾ると出費がかさむから、1本か2本ずつだけど。

そうすると、本当に散らからなくなるし、片づけが加速するのだ。
花は、部屋の守り神になった。

切り花を長持ちさせようとすれば、こまめに水を替えなければならない。
水を替えるとき、ついでに花瓶の周りをちょいちょいと片づける。
花のある空間だけでも、きれいにしようという気持ちが働く。
たとえ部屋の一ヵ所だけでも、整った場所ができると、気持ちが落ち着く。

花を飾る→水を替える→周りを片づける

これを繰り返すことで、生活が次第に整ってくるのがわかった。
私のような人間にこそ、花は必要なのだ。
羽仁もと子先生のような優れた人にはわからなかったのだろう、
凡人の行動のしくみが。

今の家に引っ越す前に住んでいた町で、子どもをうちの子と同じ保育園に行かせているママがいた。
そのお宅は、今ふうのセンスとは少し違う、昭和感漂う家だったのだが、いつ行っても玄関に立派な花が活けてあり、部屋は気持ちよく片づいていた。
ママのお母さん(おばあちゃん)のお友達が華道の先生で、週に一度習いに行っているのだそう。飾 ってあるのはお教室で使った花材なのだった。

洋風のフラワーアレンジとは違い、正統派の華道なので、
やや重々しく、校長室の雰囲気が漂ってはいたが、
紛れもなくその周辺の空気はさわやかで、整っていた。
それは、造花では決して作れない空気だ。
生きているものに対する無意識の畏敬の感情だ。

民俗学で「予祝儀礼」というのがあった。
稲作の豊かな実りを願うとき、春の耕作に先駆けて、予め豊作になるという前提で祭りを行う。
つまり、「こんなにたくさんお米がとれました。神様ありがとう」
と祝ってしまうのだ。
すると、神様はその通りにたくさんの実りを与えてくれる(はずだ)――。

これと同じで、とりあえず花を飾ってしまうことで、
一部ではあるが美しい状態を作り出し、後付けのように片づけていき、それを継続する、
というのがこの「花飾り作戦」だったのかもしれない。

サブスクのお花はとてもいいアイディアだけど、
本当なら自分で花屋で選びたいんだよね。
花屋では季節を感じることもできるし、花屋さんとの会話は花の生け方、長持ちする方法なんかも教えてもらえるし。

とはいえ、忙しい人にはなかなかいい方法だと思う。
予めの祝福、やってみる価値はある。

少し前から「花のサブスク」が登場して、よくネットの広告を見る。
あれ、なかなかいい商品だと思う。

昔、「花を飾ると部屋が片づく」というテーマで原稿を書いていたけれど、
あれは自分の経験から出たものだった。

部屋が片づかなかった頃、『婦人之友』を創刊した羽仁もと子氏が、
「部屋も片づいていないのに花なんか飾ったって仕方ないでしょう」
と強い調子で言っていた……という話をどこかで読んだ。
その時は、
「そりゃそうだよなあ」
と、片づけられない自分に忸怩たる思いを抱きつつ、
花なんか飾ったって仕方ないんだと思っていた。

しかし、だいぶ後になって、やや片づけられるようになってきた頃、
頑張って片づけた部屋に花を飾ると、散らかるのが遅くなることに気がついた。
花があるだけで、なんとなくその周囲をきれいにしようという気持ちが働くかららしい。

そこで、なるべく部屋に花を欠かさないように努めてみた。
毎回ちゃんとした花束を飾ると出費がかさむから、1本か2本ずつだけど。

そうすると、本当に散らからなくなるし、片づけが加速するのだ。
花は、部屋の守り神になった。

切り花を長持ちさせようとすれば、こまめに水を替えなければならない。
水を替えるとき、ついでに花瓶の周りをちょいちょいと片づける。
花のある空間だけでも、きれいにしようという気持ちが働く。
たとえ部屋の一ヵ所だけでも、整った場所ができると、気持ちが落ち着く。

花を飾る→水を替える→周りを片づける

これを繰り返すことで、生活が次第に整ってくるのがわかった。
私のような人間にこそ、花は必要なのだ。
羽仁もと子先生のような優れた人にはわからなかったのだろう、
凡人の行動のしくみが。

今の家に引っ越す前に住んでいた町で、子どもをうちの子と同じ保育園に行かせているママがいた。
そのお宅は、今ふうのセンスとは少し違う、昭和感漂う家だったのだが、いつ行っても玄関に立派な花が活けてあり、部屋は気持ちよく片づいていた。
ママのお母さん(おばあちゃん)のお友達が華道の先生で、週に一度習いに行っているのだそう。飾 ってあるのはお教室で使った花材なのだった。

洋風のフラワーアレンジとは違い、正統派の華道なので、
やや重々しく、校長室の雰囲気が漂ってはいたが、
紛れもなくその周辺の空気はさわやかで、整っていた。
それは、造花では決して作れない空気だ。
生きているものに対する無意識の畏敬の感情だ。

民俗学で「予祝儀礼」というのがあった。
稲作の豊かな実りを願うとき、春の耕作に先駆けて、予め豊作になるという前提で祭りを行う。
つまり、「こんなにたくさんお米がとれました。神様ありがとう」
と祝ってしまうのだ。
すると、神様はその通りにたくさんの実りを与えてくれる(はずだ)――。

これと同じで、とりあえず花を飾ってしまうことで、
一部ではあるが美しい状態を作り出し、後付けのように片づけていき、それを継続する、
というのがこの「花飾り作戦」だったのかもしれない。

サブスクはとてもいいアイディアだけど、
本当なら自分で花屋で選びたいんだよね。
花屋では季節を感じることもできるし、花屋さんとの会話は花の生け方、長持ちする方法なんかも教えてもらえるし。

とはいえ、忙しい人にはベストの選択かもしれない。
予めの祝福、やってみる価値はある。

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