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モノの持ち方、片付け、家事

掃除はあとずさりで

『人気宿泊施設「星野リゾート」の掃除術』
というテレビ番組を見つけたので、例によって録画視聴した。

たくさんある客室をいかに効率的に掃除するか、
という内容で、一般家庭とは少し違うものの、
なるほどフムフムと見ていた。

「決して後戻りせず、一筆書きのように」
という掃除の最後は、
「後ずさりして掃除機をかけながら部屋を出る」。
これは、髪の毛を落としてしまわないためだそう。

気をつけていても、髪の毛は落ちる。
そして、たった一本の髪の毛が落ちていることで、
どんなに丁寧に掃除しても、いっぺんで評価は下がってしまう。
それを防ぐための後ずさりなのだ。

1DKのアパートに住む娘が、
「掃除しても掃除しても、どういうわけか髪の毛が落ちてるのがイヤ。
 もう、ボーナスでルンバ買おうかな!」
とボヤいていたが、
自分一人しかいなくても、髪の毛って落ちるし、
イラっとする。
ましてや他人の髪の毛ならなおさら。

髪の毛に関しては、私も娘と同じ気持ちだけど、
ここでちょっと考える。

この前も、掃除が終わってフローリングモップをいつもの場所(洗面所)に戻し、
くるっと向きを変えた途端、足元に髪の毛を見つけてしまった。
もちろん、自分の。

掃除しながらだって、髪の毛は落ちるのだ。
集まるゴミやホコリの中身は、大部分が髪の毛と脛毛(夫と息子)。
人は、毛をまき散らしながら生きているのだ。

プロだから、髪の毛を落とさぬために後ずさりまでするけど、
我々がそこまで躍起になる必要、あるだろうか。

いいんだよ、自分の家なんだし、自分の毛なんだから。
気になったらつまんで捨てればいいだけのこと。
そんな、のべつ掃除機を転がしてたら、くたびれちゃうよ。

直して使う椅子

うちでいちばん人気のある椅子は飛騨産業のこれ。
ダイニングチェアにしては座面が低いけど、
うちの食卓は高さ62センチなのでちょうどいい。
(高さの根拠は、敬愛する秋岡芳夫先生の著作より)
本当に座り心地がよくてラク!
読書にも最適。

実はこれ、リサイクルショップで1万円で買った掘り出し物。
ちゃんとキツツキマークもついてる。
今、これと似た形の隈研吾さんの椅子があるけど、
30万円くらいしてとても買えない💧

座面に破れがあるけど気にせず使っていたら、
さすがにガタがきて、曲木のアームが割れてしまった。
飛騨産業に修理ができるかどうか問い合わせたら、
できるという。すごい技術力だ~!
でも、修理代高いだろうな……

とりあえず見積を出してもらうために、
六本木ミッドタウンにあるショップに送ったら、
5万以内で直るということでホッと胸をなでおろす。
さすがに修理に5万以上かけるのはキツいけど、
こんな美しいものを捨てるのは心が痛んだろうから。

1か月くらいかかったかな?
返ってきた椅子は、塗装も新たに、
すっかりきれいに直っていた。

(座面の革も張り替えたかったけど、
そうするとあと2、3万はかかってしまうので見送り……)

その後も家族の間で取り合いの人気のこの椅子、
あと何年使えるだろう。
もし、まだ長く使えるなら……
(むすめが虎視眈々www)



服のサブスク

「洋服のサブスク」の広告をちょいちょい見かける。
月々一定の金額を支払うと「プロのスタイリスト」が、
好みやサイズに合わせて似合う服を選んでくれた服をレンタルでき、
借りては返してとっかえひっかえ着ることができる
追加料金を支払えば、ちょっと高級なブランドの服も来るらしい。
なんか違うな、と思っても、レンタルだから手元に残らず、
「失敗した」というダメージがなくて済む。

流行はすぐにすたれる。服の好みも、若い頃はコロコロ変わる。
買っても買っても「着るものがない」と嘆く理由はそこにあるかもしれない。
こういうサービスを利用すれば、
モノを持たずに豊かなファッションライフを送ることができる、
なかなかいいサービスに思える。

でも、私は利用しないだろうな。

服とか靴とか、直接身に着けるものは、
自分というボディあっての存在だ。
どんなに服が素敵でも、自分という立体と合わなければ、
美しくも見えないし、第一気分が悪い。
着心地のよくない高級ブランド服なんて、なんの価値もない。

HSP気質の私にとって、服は着心地が第一。
肌ざわりが悪い、着ているうちにズレてくる、
丈や幅が微妙に違う、
少しでもそういう違和感があると、
一日憂鬱な気分になってしまい、パフォーマンスも上がらない。

そもそも私の体型は標準からややはみ出しているので、
既製服がまず合わない。
身長が低くて上半身が短く(Sサイズ)、
肩幅が広い寸胴体型(M~L)。
市販のワンピースでウエストマークされているものだと、
必ずボタン一つ分くらい上衣部分がたるんでしまう。
だからいろいろ工夫しているのだ。
服を自作するようになったのも工夫の一つだ。

私にとって、服は「自分を表現するもの」である以前に、
「自分を守ってくれるもの」。
着ていて気持ち悪くない生地、着ていて疲れない型紙、
自分の体型に沿った丈や幅だったら、
毎日同じその服で全然かまわない。
おしゃれとはほど遠いけど、
そんな「皮膚」のような服だけが着たいのだ。

若くて流行に関心があって、いろんなファッションを試してみたい、
そんな人たちにはサブスクはいいんだろう。

ただ、「買って、自分のものにする」ことによって、
服と自分の関係をより掘り下げること、
もっと言えば、自分の好みや体型を知ることができるんじゃないかとも思う。
似合わなかったからはい次、はい次、
って服が毎月通り過ぎるだけで、
自分が何が好きで、どう着たらいいかを考えることが抜けてしまっては、
かえってよくないんじゃないかな。

ちなみに、着たり履いたりしないので、
バッグのサブスクはありかもしれない。
(私は要らないけど)

吊るすとラク

この前、ちょっと風変わりな人を見かけた。

昔の「オタク」風の風貌の男性で、
どうやら推し活遠征をしているらしい。
何かがぎっしり詰まったリュックが足元にあり、
何より風変りだったのは、
首から紐でいくつもの透明なポーチをぶら下げていたこと。

ポーチはやや丈夫なファスナー付きのビニール製で、
一つには何かわからない紙類が、
もう一つにはさまざまな色のサインペンが、
もう一つは下になっていて見えなかったが、
いずれもぎっしり詰まっていた。

かなり重そうだけど、たぶん彼にとっては使い勝手がいいのだろう。
いろいろなものを書き留めたり、書いたものを分類したり、
そういうことに使っているようだ。

「吊るす」って本当に便利。
同じ数のものを平面上に並べたら、
すごく広い面積が必要になるし、
それらを畳んだり重ねたりすれば面積は減らせるけど、
今度は探し出す・取り出すのがタイヘンになる。

その点「吊るす」は、占める平面が少なくて済む上に、
検索性が格段に高い。

私はインドネシアやベトナムに行くのが好きなのだが、
東南アジアの国々で見かけるちょっとした売店や屋台は、
この「吊るす」ディスプレイを実に巧みに駆使していて感心する。

女性一人で押して歩けるような小さな屋台に、
びっくりするほど大量の菓子類が吊るされていたり、
市場の洋品店に、膨大な枚数のシャツやドレス、
バッグ類が吊るされていたりするのを見ると、
「吊るす」って優秀な収納手段だなあと思わずにはいられない。

掛けたり戻したりが容易で、一目で見つけられる「吊るす」収納だが、
欠点もあって、吊るし方をよくよく考えないと、
乱雑で汚らしく、かえって見つけにくくなってしまう。

でも、たたんだりきれいに揃えたりするのが苦手なら、
とりあえず吊るしておけば、
最低、床の上にモノを置かずに済むというメリットがあるので、
忙しい人、疲れている人にはいい方法だと思うんだ。

床にモノを置かない

若い頃、洋画に出てくる部屋ってどうしてみんな素敵なんだろうと思っていた。
登場人物が貧しい若者という設定でも、
日本のアパートなんかじゃあんなにならない。
日本の家は狭くてモノが多いからダメなのかなぁ。

でも、だんだんわかってきた。
日本の室内がごちゃごちゃして見えるのは、
「広い平面」が圧倒的に少ないことが大きな理由だ。

出入口も押し入れも引き戸の和室には壁が少ない。
開口部の少ない欧米の部屋には壁がいっぱいある。
壁の少ない和室で暮らしていた頃、
ポスターを貼る場所にみんな困ったはずだ。

床の上もそう。ついモノを置いてしまう。
私たちは畳の上に直接モノを置くことに躊躇しない。
日本人にとって畳の上は「清浄な空間」だから。

畳がフローリングに変わっても、靴を脱いで暮らすスタイルは変わらないから、
やっぱり床にポンポン置いてしまう。
これが土足で入る部屋だったら、やっぱり違うんじゃないか。

次に広い面積を持つ食卓について言えば、
囲炉裏で食事をし、囲炉裏でくつろいできたDNAのせいか、
私たちは食卓にあらゆるものを持ち込んで置きっぱなしにしてしまう。
財布や携帯、薬に化粧品、本や新聞、おもちゃに手芸用品……

昔の、たぶん1965年より前の日本の家庭には、
モノなんてたいしてなかったから散らかりようがなかったのに、
生活習慣はそのままで、モノだけ大量に流入してきたせいで、
以降50年以上、片付けに苦労する羽目に陥ったんだねぇ。



ーー

モノなんてなんだっていい

4月から新生活を始める若い人、
今からワクワクしてるんだろうな。

私が学生寮を出て一人暮らしを始めたの、
今から38年前だわ。
(書いてて驚く…… 太古の昔やん)

目黒の四畳半からのスタート。
世の中はバブルに浮かれてるのに、
学生の自分には特に恩恵もなく、
何もないところから始めた暮らしだけど、
楽しかったなぁ。

その頃から持ってるものって、
おかんがその辺で買ってくれたステンレスのボウルぐらいだわ。

逆に言うと、金属のものって長く使うことになるから、
気に入ったもの買った方がいいんだろうけど、
二十歳やそこらでそんなこと考えないよね。

いいんだよその辺で買ったもので。
けっこう、40年使えるよ。

苦肉の策

以前、「シンプルな暮らし」について原稿を書いていたことがあった。

それは別に、私がことさら綺麗好きだったとか、
ミニマリストだったからというわけではなくて、
このHSP傾向と折り合っていくために編み出した苦肉の策だったということは、
後からだんだんわかってきた。

単に音が苦手というだけでなく、
私は周囲にたくさんの「情報」があることに耐えられなかったのだ。
「モノ」は「情報」で、
私は「情報」にいちいち反応してしまうタチだった。

無地の服が好きなのは、柄やロゴを見ていると疲れてしまうから。
蔵書にカバーをかけるのは、背の色や文字を見ることで疲れてしまうから。
シャンプーやリンスを自分で買った容器に移し替えるのも、
商品名やパッケージの色を見たくないからだった。

一度にいろいろな情報を処理でできない私は、
なるべく周囲からモノを減らそうとした。
そうすることで、少しは疲れなくなるし、生きやすくなるから。
それは誰でもそうなのだろうと思っていた。

でも実際は、必ずしもそうではなかった。
みんな意外に、ガチャガチャした環境の中で、
そんなに困らず楽しく暮らしていけるものなんだ。すごい!

とはいえ、私みたいな人も、決して少なくないはずだ。
そういう人のために書いてこられたことは、よかったと思う。

千葉県我孫子市に保存されている志賀直哉の書斎。 昭和40年生まれの私が育ったのはこんな感じの家だった(ここまで渋くないけど)

ただ一つだけやるならこの家事

私、家事って趣味だと思っている。

「私にとっては趣味」
という意味ではなく、
「家事なんてたしなむ程度の趣味でいい」
「やらなきゃやらなくたってかまわない」
という意味。

私は毎日家族と自分のごはんを作るけど、
それは趣味だから。
お弁当だって外食だってあるんだから、
忙しい人、料理が好きじゃない人は、
作らなくたっていいじゃん。

掃除も、洗濯も、
やるかやらないか、どうやるか、
全部趣味の問題。
趣味だから、上手な人を参考にしたりはするけど、
「こうするべき」
なんて言われても困ってしまう。

そんな「趣味の家事」の中で、
こ・れ・だ・け・は・ぜ・っ・た・い
やった方がいいと思っているものが、

「ゴミ捨て」

極端な話、ゴミさえ捨ててれば、あとはどうにでもなる。
いちばんどうにかなるのが食事。
散らかっててもホコリたまっても死にはしないし、
掃除なんかお金出せば代行してもらえる。
洗濯だって、服をたくさん持って、
ため込んだあげくクリーニングに出せばいい。

だけど、ゴミはためると始末が悪い。
ためるくらいだから分別なんかしてないだろうし、
ゴミが増え続ければ生活空間は圧迫されて、
どんどん家が狭く汚く臭くなり、虫だって湧くかもしれない。

他人にはゴミとそうでないものの区別はできないから、
(明らかにゴミに見えるけど当人にとっては必要かもしれない)
日常のゴミ捨てを他人に委託するのはむずかしい。

家事が苦手だろうが、嫌いだろうが、
これだけはできないと困ると思う。

ゴミ出しもやりたくないなら、
家に極力モノを持ち込まず、すべて外食にするか、
ホテル暮らしをするしかないかもね。

捨てなくてOK

「モノを減らしたいけど捨てられない」
のなら、
「買わない」
「もらわない」
を徹底するのがいちばんだと思う。
補給を断てばモノは減っていく。
なくならないモノも、傷んですり減っていくので、
捨てるふんぎりがつきやすくなる。

「捨てられない」
のは、
「モトをとっていない」
という無念の思い、モノの怨念のせいだから。

すり切れ、傷つき、破れていくことで、
十分使い果たした、モトをとった、
という満足感になる。

ボロボロになってもまだ捨てられないという場合は、
親の形見とかでもない限り、もう心の病かなにかなので、
誰にも捨てさせることはできないと思う。

いいよ捨てなくて。
どの道最期の最期はすべて捨てていかなければならないんだから。

花のサブスク

少し前から「花のサブスク」が登場して、よくネットの広告を見る。
あれ、なかなかいい商品だと思う。

昔、「花を飾ると部屋が片づく」というテーマで原稿を書いていたけれど、
あれは自分の経験から出たものだった。

部屋が片づかなかった頃、『婦人之友』を創刊した羽仁もと子氏が、
「部屋も片づいていないのに花なんか飾ったって仕方ないでしょう」
と強い調子で言っていた……という話をどこかで読んだ。
その時は、
「そりゃそうだよなあ」
と、片づけられない自分に忸怩たる思いを抱きつつ、
花なんか飾ったって仕方ないんだと思っていた。

しかし、だいぶ後になって、やや片づけられるようになってきた頃、
頑張って片づけた部屋に花を飾ると、散らかるのが遅くなることに気がついた。
花があるだけで、なんとなくその周囲をきれいにしようという気持ちが働くかららしい。

そこで、なるべく部屋に花を欠かさないように努めてみた。
毎回ちゃんとした花束を飾ると出費がかさむから、1本か2本ずつだけど。

そうすると、本当に散らからなくなるし、片づけが加速するのだ。
花は、部屋の守り神になった。

切り花を長持ちさせようとすれば、こまめに水を替えなければならない。
水を替えるとき、ついでに花瓶の周りをちょいちょいと片づける。
花のある空間だけでも、きれいにしようという気持ちが働く。
たとえ部屋の一ヵ所だけでも、整った場所ができると、気持ちが落ち着く。

花を飾る→水を替える→周りを片づける

これを繰り返すことで、生活が次第に整ってくるのがわかった。
私のような人間にこそ、花は必要なのだ。
羽仁もと子先生のような優れた人にはわからなかったのだろう、
凡人の行動のしくみが。

今の家に引っ越す前に住んでいた町で、子どもをうちの子と同じ保育園に行かせているママがいた。
そのお宅は、今ふうのセンスとは少し違う、昭和感漂う家だったのだが、いつ行っても玄関に立派な花が活けてあり、部屋は気持ちよく片づいていた。
ママのお母さん(おばあちゃん)のお友達が華道の先生で、週に一度習いに行っているのだそう。飾 ってあるのはお教室で使った花材なのだった。

洋風のフラワーアレンジとは違い、正統派の華道なので、
やや重々しく、校長室の雰囲気が漂ってはいたが、
紛れもなくその周辺の空気はさわやかで、整っていた。
それは、造花では決して作れない空気だ。
生きているものに対する無意識の畏敬の感情だ。

民俗学で「予祝儀礼」というのがあった。
稲作の豊かな実りを願うとき、春の耕作に先駆けて、予め豊作になるという前提で祭りを行う。
つまり、「こんなにたくさんお米がとれました。神様ありがとう」
と祝ってしまうのだ。
すると、神様はその通りにたくさんの実りを与えてくれる(はずだ)――。

これと同じで、とりあえず花を飾ってしまうことで、
一部ではあるが美しい状態を作り出し、後付けのように片づけていき、それを継続する、
というのがこの「花飾り作戦」だったのかもしれない。

サブスクのお花はとてもいいアイディアだけど、
本当なら自分で花屋で選びたいんだよね。
花屋では季節を感じることもできるし、花屋さんとの会話は花の生け方、長持ちする方法なんかも教えてもらえるし。

とはいえ、忙しい人にはなかなかいい方法だと思う。
予めの祝福、やってみる価値はある。

少し前から「花のサブスク」が登場して、よくネットの広告を見る。
あれ、なかなかいい商品だと思う。

昔、「花を飾ると部屋が片づく」というテーマで原稿を書いていたけれど、
あれは自分の経験から出たものだった。

部屋が片づかなかった頃、『婦人之友』を創刊した羽仁もと子氏が、
「部屋も片づいていないのに花なんか飾ったって仕方ないでしょう」
と強い調子で言っていた……という話をどこかで読んだ。
その時は、
「そりゃそうだよなあ」
と、片づけられない自分に忸怩たる思いを抱きつつ、
花なんか飾ったって仕方ないんだと思っていた。

しかし、だいぶ後になって、やや片づけられるようになってきた頃、
頑張って片づけた部屋に花を飾ると、散らかるのが遅くなることに気がついた。
花があるだけで、なんとなくその周囲をきれいにしようという気持ちが働くかららしい。

そこで、なるべく部屋に花を欠かさないように努めてみた。
毎回ちゃんとした花束を飾ると出費がかさむから、1本か2本ずつだけど。

そうすると、本当に散らからなくなるし、片づけが加速するのだ。
花は、部屋の守り神になった。

切り花を長持ちさせようとすれば、こまめに水を替えなければならない。
水を替えるとき、ついでに花瓶の周りをちょいちょいと片づける。
花のある空間だけでも、きれいにしようという気持ちが働く。
たとえ部屋の一ヵ所だけでも、整った場所ができると、気持ちが落ち着く。

花を飾る→水を替える→周りを片づける

これを繰り返すことで、生活が次第に整ってくるのがわかった。
私のような人間にこそ、花は必要なのだ。
羽仁もと子先生のような優れた人にはわからなかったのだろう、
凡人の行動のしくみが。

今の家に引っ越す前に住んでいた町で、子どもをうちの子と同じ保育園に行かせているママがいた。
そのお宅は、今ふうのセンスとは少し違う、昭和感漂う家だったのだが、いつ行っても玄関に立派な花が活けてあり、部屋は気持ちよく片づいていた。
ママのお母さん(おばあちゃん)のお友達が華道の先生で、週に一度習いに行っているのだそう。飾 ってあるのはお教室で使った花材なのだった。

洋風のフラワーアレンジとは違い、正統派の華道なので、
やや重々しく、校長室の雰囲気が漂ってはいたが、
紛れもなくその周辺の空気はさわやかで、整っていた。
それは、造花では決して作れない空気だ。
生きているものに対する無意識の畏敬の感情だ。

民俗学で「予祝儀礼」というのがあった。
稲作の豊かな実りを願うとき、春の耕作に先駆けて、予め豊作になるという前提で祭りを行う。
つまり、「こんなにたくさんお米がとれました。神様ありがとう」
と祝ってしまうのだ。
すると、神様はその通りにたくさんの実りを与えてくれる(はずだ)――。

これと同じで、とりあえず花を飾ってしまうことで、
一部ではあるが美しい状態を作り出し、後付けのように片づけていき、それを継続する、
というのがこの「花飾り作戦」だったのかもしれない。

サブスクはとてもいいアイディアだけど、
本当なら自分で花屋で選びたいんだよね。
花屋では季節を感じることもできるし、花屋さんとの会話は花の生け方、長持ちする方法なんかも教えてもらえるし。

とはいえ、忙しい人にはベストの選択かもしれない。
予めの祝福、やってみる価値はある。