投稿者「カネコ」のアーカイブ

カネコ について

金子由紀子です。 書籍でエッセイなどを書いています。

涼しいところ

奥日光に行ってきました。

日光には子供の頃からよく行っているけど、
いつも同じところに行く。
今回も、戦場ヶ原を歩き、湯元に泊まり、
光徳沼に寄るというお決まりのコース。

さすがに標高1400m台ともなると涼しい!
日陰に入ると、吹き抜ける風がカラっとしていて快適。
夏の間、ここで暮らしたいといつも思う……。

赤沼の駐車場にクルマを停めて、小田代ヶ原まで歩き、
湯川沿いに戻ってきて、だいたい4~5㌔。
翌日は宿から湯の湖のふちを歩き、湯滝まで降りてまた戻り、
都合4キロ近く歩く。

いろいろな苔、きれいな花、
飛び交う虫や小鳥、透明な水、
ここは天国に違いない……

大好きな場所、光徳沼にも立ち寄った。
水は冷たくてキラキラしていて、
この冬、クロカンスキーで通った辺りには、
ものすごい数のトンボが飛び交っていた。

もう牛の放牧はしていない。
ソフトクリームの売店のスタッフに尋ねたら、
数年前、オーナーが若くして急死され、
牛たちもこの事業も売却してしまったのだそう。

私が子供の頃は、観光バスが何台も止まり、
観光客でにぎわっていたなあ。
現オーナーも、お客が戻ってきたら、
新しい事業を始めるんだといいな。

天空の宝石のような奥日光、
その日の深夜からは、私も登ったことのある、
男体山の深夜登山が始まると、ポスターが知らせていた。

(5)変わっていった

私が思うシンプルライフとは結局?

「何も持たない暮らしじゃない」
「何でも手作りライフじゃない」
「センスのいいおしゃれな暮らしじゃない」

じゃあ、何がシンプルなんだよ。

確かにそうなんです。何も面白くないですよね。
ここで言ったことをまとめると、

「そこそこ片付いてはいるけど、大してセンスがいいわけでもない」

ということになります。
そんなのバエないじゃん!? 

でも私、それでいいんじゃないかと思ってるんです。

「シンプルに、シンプルに」
と暮らしを変えていった頃は、
なるべくモノを減らして、生活感をなくして、
できればおしゃれにセンスよく……
と頑張っていました。

でも、私のセンスなんて知れたもの。
おしゃれを目指すのも、だんだん疲れてきました。

おしゃれとかもういい

そんなある日。
雑誌の編集者やライターの女性と、たくさんの素敵なインテリア写真を見ながら、
雑誌の企画について話していたときのことです。

その中の一人が、フフっと笑いながら、
「どれもおしゃれですね……。
 でもなんか最近私、こういうのおなかいっぱいで」
とつぶやきました。

すると、そこにいた全員が同時に、

「あーー。なんかわかるーーー」

と声を揃えたのです。

そこにいたのは、おしゃれで素敵なインテリアのお宅をさんざん取材している、
自身もおしゃれでセンスのいい女性ばかり。
なのに、その場ではなぜか、不思議な共感が生まれていました。

わかるわかる。
「ホラ、おしゃれでしょ、センスいいでしょ」
っていうの、実はだんだん疲れてくるんだよね。
私が抱いていた、言葉にならない気持ちが、
初めて言語化され、人と共有できたのがその時でした。

美人は似ている

美容整形が盛んな国では、
一般の女性も整形手術を受けることに抵抗がないと言いますね。

そんな国では、ミスコンテストのファイナリストが、
みんな似たような容貌になってしまう、
それは皆、同じモデルを目標にして、
同じ敏腕美容整形外科医に施術してもらうからだ……

なんていう話がまことしやかに囁かれたりします。

目や鼻の配列やバランスに「黄金比」なんていう言い方があるくらいだから、
美人は、どうしても似てしまうのかもしれませんね。

それと同じように、おしゃれなインテリアも、似通ってしまうのかもしれない。

「和モダン」ならこんな感じ、
「北欧テイスト」ならこんな感じ、
「ミッドセンチュリー」ならこんな感じ、
ある程度「正解」があって、それが心地よさの理由なのですから。

ただ、そういう「正解」ばかりを見ていると、
ちょっぴり疲れてくるのはなんでだろう。
ミスコンで似たような美人ばかり続けて見ているうちに、
誰が誰だかわからなくなってしまうようなものかしら。
それがあの時の、編集やライターたちの本音だったのかもしれないなぁ。

その会話に立ち会ったのは10年くらい前だったと思いますが、
それから自分の中の何かが、少しずつ変わっていきました。

(4)手作りライフでも、おしゃれライフでもない

何でも手作りライフでもない

昔のアメリカのシンプルライフについて書かれた本を読むと、
「自給自足への憧れ」「豪華さや人工的なものに眉を顰める」
みたいな記述がちょいちょい出てきます。

(宗教的に)退廃した英国を逃れ、新天地でスッキリサッパリ、
清貧のライフスタイルを実現するぞ! 
という意気込みがあったのでしょうか。
もちろんそんな意気込みはアッという間に消し飛んで、
何度も何度も「シンプルな暮らしに回帰しよう!」
って言い続けることになるんですけども。

そんなアメリカのシンプルライフといえば、
NHKでも繰り返し放映されていた『大草原の小さな家』を思い出します。
ナンもない大草原で、家族全員支え合って土地を開墾し、
何でも知恵と工夫で手作りしつつ、
貧しいながらも豊かな生活を築き上げるワイルダー家の姿に、
強い共感を覚えた人は少なくないでしょう。

同様に、根強い人気を誇る画家、ターシャ・テューダーさんも、
美しい庭園だけでなく、
シャツを作れば糸から紡いじゃう究極のナチュラルライフを送っていました。

山奥のポツンと一軒家で、家はセルフビルド、米も野菜も育て、
鶏を自分でつぶす生活っていうのも(ちょっと憧れるけど)、
そんな技術も体力もありません。梅干や部屋着ぐらいは作るけど、
梅は道の駅で買うし、生地は日暮里で、型紙だってネットで買っています。
イオンやホームセンターにもお世話になっています。
そういう意味で、ごくごく中途半端なライフスタイルではあります。

「すべて高品質なお気に入りに囲まれた暮らし」でもない

美意識の高いセレブな人たちが提案するするライフスタイルに、こういうのがありますよね。家具調度や台所で使うもの、身に着けるものも、
デザインが優れていて、品質が高いものばかり。
「なぜこれを使っているのですか?」と聞かれれれば、
すぐに明快な答えが返ってくるものばかり。カッコいい!!

でも、私は普通の人なので、「なんでこれを?」と聞かれても、
必ずしも答えられないことがあります。

「なんでって……昔、友達にもらって何となく」
「実家に余ってた」
「買いに行ったらこれがいちばん安かった」

とか、そんなカッコ悪い答えだったりすることも。

でも、自分なりにはまあまあ使い勝手が良くて、それで足りているし、
別に困ってない。
考えに考え抜いて手に入れることもたまにはあるけど、そうでもないものも多い。
考えに考え抜いて手に入れたって、
使っているうちにだんだん合わなくなってきたりもするし。

そりゃおしゃれな方がいいっちゃいいけど、
暮らすことって、別におしゃれが目的じゃないんですよね……。

支援校の教師になった夢

健常児と障害児のインクルーシブ教育をしている学校で働いている。
今日は学習の成果を舞台上で発表する日である。

わたしのの担当する重度障害を持つ女の子も、
辛うじて他の子と舞台に上がれる成果を得た。

しかしいざ舞台に上がるとその子は、這って下手のカーテンの陰に入ってしまう。
せっかく晴れてみんなの前で発表できるのになぜ……

その時なぜか彼女の心の中が見えるようになった。
言語を通じたコミュニケーションができない彼女だが、
ちゃんと自分の意思と考えを持っている。

彼女は舞台に上がったことを喜んでいた。
しかし、自分が観客席に見えるかどうかはどうでもいいと思っていた。
両親や教師を喜ばせようなどとは微塵も考えていない。

彼女の精神は透徹しており、自分が遠からず死ぬことも知っていた。
しかし、それさえもどうでもよいと考えている。
今現在のことしか考えていない。

音楽が始まり、舞台上の子供たちは歌ったりセリフを語ったりしはじめた。
彼女は、自分のパートであるダンス(うつ伏せになって体を動かすだけだが)を始めた。

彼女は喜んでいる! 
他の子と同じ音楽の中で、同じ時間を生きることを楽しんでいる!

それがわかって私は「成果を見せたい」などと思っていた自分の身勝手さ、
浅はかさを思い知り、同時に彼女の感じている喜びを一緒に感じ、
泣きながら目がさめた。

(舞台袖にうずくまる彼女の前に、なぜかタッパーに入ったお粥が置かれていた)

(3)ここで言ってるシンプルライフって?

ここで言っているシンプルライフとは?

ところで、ここで言っている「シンプルライフ」とはどんなものか?

耳ざわりがいいけど具体性に欠けるこの言葉、みんながそれぞれのイメージを持っていると思います。
「モノを(全然)持たない暮らし」なのか? 
「何でも手作りしてゴミを出さないSDGs系の暮らし」なのか? 
「すべてお気に入りの(時として高価な)モノに囲まれた、センスのいい暮らし」なのか?

10人いれば10通りの「シンプルライフ」があるのでしょう。

なのでここでは、私なりのシンプルライフについて、ちょっと言っておきたいなと思います。まあ、ただ私が思ってるだけで、これがシンプルライフだ! なんて言うつもりはサラサラないですけどね。

(私のシンプルライフは)ミニマルライフじゃない

ミニマリズムがもてはやされるようになってからは、「シンプルライフ=ギリギリまでそぎ落とした伽藍洞のような部屋」がイメージとして定着したかもしれません。

椅子もない、テーブルもない、冷蔵庫さえなく食器は応量器一揃いのみ……といったライフスタイルも、最近ではあまり驚かれなくなりました。

しかし、私自身はこの暮らし方を「シンプルライフ」と呼んだことはないし、自分が実践したこともありません。カッコいいけど、長く続けられるものではないし(私はね)、特にやる必要を感じたことはありません。

ミニマムな暮らしは、体力かお金のどちらか、あるいはどちらもないと難しいと思います。人は、モノによって支えられ、モノによって形づくられている側面があると思うからです。本当にモノが何も要らないのであれば、こんな社会は形成されなかったし、逆に言えばこんな社会があるから、モノを持たなくても暮らしていけるのです。

普通、年をとるごとにモノは増えていきます。

若い頃視力が良かった私も、今では老眼鏡のお世話になり、高血圧家系のため、血圧計だって持っています。長生きすれば、入れ歯のケアグッズとか、杖なんかも必要になるかもしれません。失った体力や健康は、モノで代替しなければ生きていけません。

また、私は料理が好きで(別に上手じゃない)、特に近年タイ料理にハマってからは、家族に困られながらもせっせと作っては喜んでいます。

ある時とうとう、タイ料理に必須の「クロック」(石臼)を買ってしまいました!

モノは、なるべく一器多用し、代用したり省略することで増やさずにいられるものです。最初は私も、すり鉢と麺棒で頑張ってスパイスを潰していました。それでもできなくはないですが、毎日のように作るには、無理がありました。第一、楽しくない。

クロックを買った日から、すり潰す作業が何倍も楽しくなりました。香りの立ち方が違う! なんて楽しいんでしょう!

あれもこれも持てば居住空間が狭くなるし、管理も大変になります。持ちすぎるのは厄介で、暮らしを窮屈にさえします。
でも、本当に好きなもの、本当に必要なものは、もう自分の一部なのですから、我慢することはないと思う。「どうせ死ねば全部ゴミ」かもしれませんが、まだ生きてるんだもの。生きているうちは、自分らしく生きるために、モノは必要なんです。

「モノを持たない」を金科玉条にしてしまうと、「持たない」ことが自己目的化しはじめます。いちばん持っていない人がいちばんエライなら、それは死者ということになってしまう。

趣味で「持たない」ならいいと思います。健康で、お金があれば可能です。
でも、それを至上と考えると、逆に窮屈になるし、それを他人に誇ったり、押し付けたりすることがない方がいいとも思います。

競馬の天才兄弟の夢

どこかわからない国が舞台。
兄は競馬の天才で、やせぎすで皮肉屋。
弟は頭がいいがおだやかな人物。

兄が脳を冒される病気にかかる。
精神が崩壊してしまう前に、弟に自分の知識をすべて伝える。
弟は兄の知識を受け継ぎ、兄がしていた競馬の仕事を、兄の名で継続する。
その様子を見て満足し、消えていく兄。
研究者でもある弟は、兄の分も生きねばならず大変になってしまった。

一匹の猫が登場し、重要な役割を担っていたのだがそこは忘れてしまった。

(2)黒歴史・捨てたけどダメだった話

いっぺんに捨てた

子供が2歳になった頃、散らかった部屋にたいがいうんざりしていた私は、妹と語らってフリマに参加することにしました。

家中の不用品を積み上げ、売れそうなものだけ残して捨てまくりました。フリマでは、売れそうもないものに限って売れ、高かったものが売れ残ったりもしましたが、フリマで売れ残ったものも全部捨てました。家はずいぶんとスッキリして、これなら生きていける……! と安堵したものです。

ところがその1年後、我々は再びフリマに参加する羽目になるのです。1年経ったら元の木阿弥だったからです。あんなに捨てたのになんで!?

ここに来て、さすがの私も、

「これは自分の暮らし方がおかしいのでは……」

と気がつきました。捨てても売っても1年経てば元通りというのは、何かが間違っているに違いないのです。

改めて自分を観察したら……

 2回目に捨てる羽目になった不用品を見回し、フリマ後は自分のモノの買い方、持ち方に注意して観察するようになりました。すると、二つの問題点が見えてきました。

1 要りもしないモノを考えなしに買っている

・1枚当たりがおトクになるからと、3枚セット色違いの服など買っている。その中の一色しか着ないくせに。
・百均やホームセンターで、使うかもしれないと同じものを2個も3個も買ったり、目新しいものをとりあえず買っている。結局使わない。
・おトクな気がして「オマケ」がついている方を買っている。結局要らない。

2 要りもしないモノを考えなしにもらっている

・「これ、要らない?」と、友達や姑がくれるモノを、「せっかくだから」とホイホイもらっている。絶対使わないとわかっているのに断れない。そのくせ捨てられない。
・開店記念だのご来店感謝だのの、よくわからない粗品をついついもらっている。
・出先でパンフレットやフライヤーを必要以上にもらってしまう。

この二つの行動が目に余ることがわかりました。

いくら捨てたって、後から後から入ってくるんだもん、そりゃ追いつかないわ。

どんなに捨ててもダメ

その時から、「買わない」「もらわない」で済ます方法を考えるようになったのです。片付け以前に、モノの流入のハードルを高くしたわけです。後から考えると、これがいちばん効きました。片づけなければいけないモノの母数が減ったのですから。

結局、どんなに大量にモノを捨てても、自分の考え方、行動が変わらなければ、しばらく経てば元通りなのだとわかりました。そして、現代日本に暮らしている限り、普通に暮らしているだけで、モノは家の中に流入してきてしまうことも―――

なので、2回目のフリマの後、「買う」ことにはよくよく注意を払うことになり、「もらう」ことは極力避けるようになりました。

(1)自分なりのシンプルライフに至る道のり・濫觴編

以前書いてきた「シンプルライフ」について久しぶりに書いてみようと思います。

今は書く人がいっぱいいるので、今更ない書く必要もないとは思うのですが、自分の人生の区切りの一つとして、自分が困っていたこと、考えたこと、うまくいったことなど、ここで一旦まとめておきます。

モノは少なくても散らかる

私は、モノをたくさん集める人間ではありませんでした。本は比較的たくさん持っていたかもしれませんが、たまれば売ったりあげたり捨てたりして、一定数を超えることはなかったし、おしゃれじゃないから服もそんなに持ってない。

だ・け・ど、なぜか散らかるのです。

空間を把握する能力が低いからかもしれません。

一人暮らしの時も、雑然とした空間で暮らしながら、これどうにかなんないのかといつも思ってはいました。

片付けに興味のなかった20~30代初め

当時(1990年頃でしょうか)はまだ、「シンプルライフ」はレナウンのブランド名にあったくらいで、「モノを持たない」という価値観ではなく「たくさんあるモノをいかにして美しく収納するか」というのが、生活情報誌や主婦雑誌の大きなテーマでした。

この頃は、すのことかつっぱり棒とか便利グッズで「デッドスペース」を収納に変え、隙間なくモノを詰め込むことが美徳とされていましたね。そういう細かいことが苦手だったので、私には真似してもうまくいきませんでした。詰め込んだはいいが取り出せない、取り出したが最後、元に戻せないんですから。

そんな私も結婚し、同じように一人暮らしをしていた夫と暮らし始めました。

昔住んでいた敷地にあるお稲荷さんで知り合いの禰宜さんに祝詞を上げていただいただけの地味婚だったので、家具も家電も持ち寄り。持ち寄り所帯って、違うテイストの同じモノが2つずつあって、片付かないんです。

しかし、それなりに楽しく暮らしていたので、この頃はまだそんなに悩んではいませんでした。

子供が生まれ、カオスに

結婚して数年、子供が生まれました。子供が生まれても在宅で仕事を続けていると、家の中はあっという間に悲惨なことに……。

お勤めされている方だって、子供が生まれたら家の中がタイヘンなのは同じでしょうが、在宅ワーカーの場合、家が職場なので、散らかり方が半端ないのです。当時はまだ紙ベースだったので、預かった原稿やらゲラやら資料やらが2DKの我が家にあふれ返り、そこに子供服やらおもちゃやらオムツやら、大人だけで暮らしていた時の何倍ものモノが入り込んでカオス!

子供の体が弱かったこともあり、精神的にまいっていた私にとって、このカオスは地味につらかったです。この先に「育児ノイローゼ」が待ってるんだろうかと、暗い気持ちでぼんやり部屋を見回していた自分を思い出します。

演劇を観に行く夢

身内の演劇をやっている者が舞台監督を務めたという舞台を観に行く。
初日の上演前なのに、楽屋に挨拶に行く。 

身内と喋っているうちに、
まだ観ていないのに内容が映像化されて頭に入ってくる。
とてもお金のかかった豪華な舞台装置で、
ストーリーというよりは、ある新宗教の入信儀礼そのまま。
国会でも取り上げられている、世間を震撼とさせた新宗教である。

私はその儀礼の手順を何かで読んで全部知っており、
舞台で行われることが、
観客にとって現実の入信手続きとなってしまうのではないかと恐れる。
しかし、身内をはじめ関係者にはまったく悪意はなく、
会話にも屈託がない。

せっかくの舞台だが、
これを公開すれば観客の身に危険が及ぶかもしれない、
止めるべきでは……と一人で焦っている。

(現実には、入信儀礼があるのか、どんなものかは知らない)

日本ハッカ

自分なりに組んだ日課を淡々とこなすことが、
私にとっては心を安定させてくれるいベストの方法なのだが、
月頭に風邪をひいたのが長引き、
体調イマイチの日が続いたせいで、
すっかりその習慣が崩れてしまった。

このブログもそう。
別に誰かに読ませようというものでもないし、
書かなければ書かなくても済んでしまうものだから、
ひとたび止まるとこの体たらくである。

でも、やっぱり私には習慣が必要。
ようやく体調も戻ってきたし、
また一から日課を立て直し中。
やると決めたことが一つひとつできていくとスッキリするし、
気持ちが落ち着くね。

今日は、先日手に入れた日本ハッカをプランターに植えた。
野生のものを見つけたくて、
湿地っぽいところに行くたびに目を皿のようにして探していたけど、
全然見つからなかった。

外房にドライブに行ったとき、ハーブの専門店に寄って、
ダメ元で尋ねてみたら、なんとあった!!

夏は苗を買うにはあまり適していないけど、
ハーブ売り場のお姉さんが親切に苗を見つけ出してくれ、
「野生のを探すのはすごく難しいと思う」
と教えてくれた。
外来種のミントと違って競争に弱いらしい。
確かに、スペアミントなんて河原にいっぱい生えてるもん。

この株を絶やさず増やしていければいいな…
葉っぱは小さくても、とてもいい香り!