昨年急に亡くなってしまった友人は、
近所でカフェを経営していた。
店も閉まってしまい、そこで会っていた常連さんとも、
それきり顔を合わすこともなくなっていたのだが、
たった一人だけ、LINEを交換していた人がいた。
彼女に連絡をとり、なんとか「偲ぶ会」的なものをしたいですね、
と言っていたのが、彼女も一人だけ知っていた常連さんに声をかけ、
その一人がまた一人に声をかけ、
なんとか7人が集まることになった。
場所は、閉店してすぐに借り手のついた同じ店で。
なんだか妙な気分だが、そこがいちばん集まりやすい。
すると、予約の経緯を知った新オーナーが気を利かせ、
故オーナーのお子さん(成人)に知らせてくれたことで、
お子さんも顔を出してくれることになった。
知らない同士もいたけれど、
故人をめぐるエピソードに花が咲き、
よく似た面影のお子さんともお話しができ、
とても充実した会になった。
自分以外の人とふれあうことで、
うすぼんやりした悲しみが言葉を得て、形を得て、
体の中から吐き出されていく。
感情も成仏するのだろうか。
故人の生き方考え方を反映して、
戒名はなく、お骨の一部は海に撒いたそうだ。
最後に会った日、
しばらく治療に専念する、と言った彼女の手を握って、
「じっくり治して!」
と励ましたつもりだった。
その手は暖かかったのに。
もう会えない悲しみはいましばらく続くだろう。
でも、そんなに悲しいことでもないのかもしれない。
私も同じ方向に進む流れに乗っているのだから。